眞廣寺の沿革

真廣寺について

真廣寺(しんこうじ)は山号を紫寶山(しほうざん)と申し、「真宗大谷派(京都:東本願寺 真宗本廟)・長浜教区第12組(そ)」に属します。

現在、住職・釋慈祥をもちまして26代目となります。

交通の要衝である米原市にあり、駅より徒歩で約20分という好立地でありながら田園風景広がるこの地において、脈々と法灯を受け継いでおります。

開基とそのあゆみ

1259(正元元)年、兵庫頭源頼政5世の孫、大田太夫廣政の子、大田松若丸・釋眞蓮が開基であると伝えられています。(近江国坂田郡史第6巻より)

◎もともと天台宗の寺院でありましたが、寺伝の阿弥陀如来像の裏書はに、大永3(1523)年2月18日とあり、おそらくこのころ天台宗から浄土真宗に転宗したのではないかと推測されています。(別伝に、開基・釋眞蓮が親鸞聖人に帰依したともありますが、これは定かではありません)。

戦国時代の悲劇

1570(元亀元)年には、織田信長の兵火にあい、堂宇は焼失。不幸中の幸いにして仏像仏具は難を逃れたとのことです。この時代に大田家の血筋が絶えたとされています。織田勢に殺害されたとも、戦死したとも伝えられますが、詳しいことはわかりません。

◎米原近辺は、京へ攻め上る交通の要衝であったことから、このあたりは幾度も戦場になりました。(真廣寺のすぐ南には大谷吉継の首塚もあります)。そういう時代であったとはいえ、先人たちのご苦労がしのばれます。

継承・そして…

真廣寺11代目は、美濃国岩出の城主・竹中半兵衛重治の弟が継職しました。当地上多良の豪家、多良右近の縁によってここに閑居し、薙髪して釋浄念と称したといわれます。

◎この地に共通して伝わる地名に『多良』があります(上多良・中多良・下多良)。多良族という有力な豪族がいたことから、この地名がついたと言われます。なお、現在もその末裔とされる方はご健在でいらっしゃいます。

教如上人に帰依

なお、当寺に伝わる宗祖親鸞聖人の絵像(左写真)裏書には、慶長18(1613)年4月とあります。おそらく釋浄念の時代に教如上人に帰依し、授与されたものと推測され、この時代より真宗大谷派に属していたようです。

教如上人時代の貴重な御開山(ごかいさんーしんらんしょうにんの御影のこと)ということで長浜市歴史博物館に企画展示(2019年5月)されました。

井伊家とのつながり

永禄7(1564)年4月より6月に至る2ヶ月間、今川家より命を狙われていた井伊萬千代(後の井伊直政)が、当寺にかくまわれていたと伝えられます(近江国坂田郡史第6巻)。 現在も法要の際、当寺玄関には井桁と橘の紋がかけられます(左写真)。かつて、紋の使用を当寺へ許可された名残と伝えられています。

また明治時代のことですが、井伊家と関わりの深い長浜別院大通寺において接待役(饗応役)を仰せつかっていたとの伝えもあり、寺伝の五条袈裟には井並びの大通寺紋があしらわれております。

現在

かくして現在、地元のご門徒に支えられつつ、連綿と法義を相続しております。

◎明治の時代までは、当寺の裏手には入江内湖という大きな内湖がひろがっており、寺から湖がよく見えたともいわれます。その言葉を裏付けるかのように、当寺には「翫湖堂(がんこどう)=湖を愛でる堂宇であるの意」という額が伝えられています。 なお、2008年4月から発行の寺報(新聞)はこの名を取って「翫湖堂だより」と命名させていただきました。