掲示板のことば・2020年

あんたも おこつになるよ いきとるんか うごいとるんか どっちや 〜ふじい じとう 〜

あんたも お骨になるよ 生きとるんか 動いとるんか どっちや 〜2020年10月

 藤井先生は「妻は坊守として、私は住職として、それぞれが仏法を聞いてきたという思いに立っていましたけども」と続け、「妻の病床での「侮っとった」という一言」で、いかに仏法を「我がごと」としてきくことが難しいかを思い知ったと告白しておられる(真宗会館・言の葉サイトより)。

 かつて御命日を「御明日」と書いた。生を明らかにする日の意味だ。なぜ一周忌を二回忌と呼ばないのか。それは死者の記憶を起点として、私自身、年月を〝一周〟して、さていかがかと自問自答するためではないか。

 私たちは「生きて・活動している」。だから生活という。だが今、活動さえ豊かならばそれで幸せと錯覚させるような綺麗ゴトが世間には溢れている。本来コロナ禍で思い知らされ、そして忘れてならないのは「私もお骨になる」という事実であろう。そこからやがて終えるであろう生の厳粛さを深く「我がごと」と考えるべきではないのか。

 そして問い続けないといけないのは、今まさに、そのイノチをちゃんと「生きとるのか」、それともモノとコトとカネに踊らされ、ただ「動いとる」だけなのかということである。人生は一度きりだというのに。

くるしいことから にげていると たのしいことからもとおざかる

苦しいことから逃げていると 楽しいことからも遠ざかる 〜2020年7月

コロナ禍で時間がもったいないと、職場の寮仲間で筋トレがブームになった。NHKで“筋肉は裏切らない”という言葉が流行したように、筋トレは苦しく厳しいが、その分「健康」という楽しみが待っている。

実は精神にもトレーニングが必要であって、それは「私はなぜ生まれてきたのか」「私はどう生きるべきか」「人生の意味とは何か」と妥協することなく問うことである。しかしどうだろう、現代は日常と精神の線引きが曖昧になり、厳しさといっても金もうけか人間関係ぐらいしか興味がなさそうだ。多くの人が本気で人生を問うことなく、安っぽい感動を求めたり、安易な言葉にすがりつく。その一方で問題を他者に転嫁し、辛辣に責め立てている。

先日、コロナ禍に寄せ「そもそも不安はなくならないものだ」という一文を書いた。すると「厳しすぎる」「優しい言葉が欲しい」などというご意見をいただいた。日常生活ならまだしも、人生の事実に対して真剣に考えるとき「大変だったね」と撫でてくれるような思想は偽宗教・偽哲学にすぎないと申し上げたい。それらは精神に贅肉をもたらすだけで、まことの生の喜びからは遠ざかるばかりである。

まことにもって にんげんは いずるいきは いる をまたぬ ならいなり 〜れんにょ しょうにん〜

まことにもって 人間は 出ずる息は 入るを待たぬ ならいなり 〜蓮如上人〜 2020年4月

人間は呼吸をして生きていることを皆知っている。その呼吸はいつか止まることも知っている。しかし、その日がいつのことなのかは、誰も知らない。全く当たり前のことなのに、私たちは普段それを見ようとせずにいる。蓮如上人が御文でおっしゃるように、私たちは出した息を必ず吸える保証を持たない。生を受けたからには、いつか「帰る」身を生きているのだ。

昨今の「世界同時鎖国」と表現されるコロナウイルス騒動。これが昨日まで文明社会とやらを生きてきた人間の真の姿だ。それほどまでに「その日への備え」が一切できていなかったのだ。生と死を憶念することもなく、とことん今の楽しみしか考えて来なかったのだ。

そもそも人は病いで死ぬわけではなく、もとより死ぬ身を生きている。それが如来真実である。蓮如上人はさらに「人びとはただ、目の前の人生について、いつまでも生き延びられるように思い込んでいるようである。浅ましいというよりも愚かとしか言いようがない(取意)」ともおっしゃる。

「生の終わりを見つめながら今を意識して生きる」大切さと難しさを教訓としなければならない。それが「本尊」、本当に尊いことなのだから。

ただしさは にんげんからは なりたたない ただしさは あたえられる もの 〜いけだゆうたい〜

正しさは人間からは成り立たない 正しさとは与えられるもの 〜池田勇諦〜 2020年1月

私たちが話し合い、議論する時には必ず双方で「立場」をもつ。

例えばAさんにはAさんの、BさんにはBさんの立場があって話をすることになる。ということは互いに川の対岸に立って議論するようなもので、自分の「正しさ」を抱きしめているが故に、どれほど努力したとしても、双方の歩み寄りは起きない。

考えればわかるようなことだけれど、人はそれに気づかなくて、友人・家庭・地域・国家で争いを起こす。実は家庭内問題も国際問題も結局同じこと。「自分の正しさを握りしめて相手を殴りつける愚」が根底にあるのだ。

では真実の正しさはどこで得られるのか。それはお互いの「偏り」を教えてくれる眼に照らされるしかない。

人である以上、AさんもBさんも双方に正義の思いはあるだろう。けれどもその正義自体が、必ず自分目線に思考する偏りをもつもの。偏りを知らしめ、気づきを与えてくださるはたらきが真実である。

南無阿弥陀仏は一見、頼りないように見えるだろう。だがそれこそが偏った自分の正義に気づけよ、という真実からの呼び声そのものである。