掲示板のことば・2008年

ぶっぽうは いま きかねば いまは あすより わかいから

仏法は「今」聞かねば 「今」は明日より若いから 2008年12月

「生物時計」という言葉がある。腹時計のことではない。例えば毎朝目が覚めるとき、実は無意識のうちに脳の中では数時間前から目覚めの準備を始めているというのだ。

角田忠信という学者の研究によれば、誕生日の前後になると、左右で聞こえる音の周波数が自動的に更新されるともいう。他にも生物時計というわけではないが、人間の細胞は1年経つとすっかり入れ替わってしまうというのも有名な話だ。

これらは現代の科学が解明してきた人間の「不思議」である。だが科学が存在する前からこの不思議は「事実」として存在している。たとえ私たちが知らなくても忘れていても、身体は毎日確実に時を刻んでくれている。まさに、今日は明日より確実に若く、明日は1日分だけ老いている。

今年もはや、年の瀬。蓮如上人は「仏法には、明日と申すこと、あるまじく候う。仏法のことはいそげいそげ」とおっしゃる。このせわしい時期こそ、立ち止まって仏法に自らをたずねたいものだ。 (2008年12月)

こころえたとおもうは こころえぬなり こころえぬとおもうは こころえたるなり〜れんにょしょうにん〜

心得たと思うは心得ぬなり 心得ぬと思うはこころえたるなり〜蓮如上人 〜 2008年11月

家族でクイズ番組を観ているとき、出演者の回答に合わせて答えを予想するという楽しみがある。ところが自分の予想した回答が間違っていたとき、家族の体面上、少々気恥ずかしいものである。時には思い違いを装って照れ臭さをごまかそうとしてしまう。

クイズに限らず、「知っているつもりで実は知らなかった」ということは人生において案外多いものだが「私が知らなかったという事実」に照らされない限り、なかなか自分でそれに気づくことはない。さらに人はそういう事実に直面したとしても、なかなか素直にうなづけないものである。

どんな人でも自分の誤りを認めることは嫌なものだ。しかし「知っているもり」で真実から遠いまま生きていることのほうがよほど問題が大きいように思う。ましてその事実を知ってさらに逃げるならば大問題だ。

「わかっているつもりのときが一番あぶないんだよ」と蓮如さんから呼びかけられている。(2008年11月)

よのすみうきは いとふ たよりなり 〜げんしんそうず〜

世の住み憂きは いとうたよりなり 〜 源信僧都 〜 2008年10月

住みにくくけがれたこの世の中(穢土)いやだと思い(厭い)、安らかな浄土を欣う(ねがう)こころを厭離穢土・欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)という。徳川家康が馬印に用いたことで有名な言葉だ。

ではその言葉どおり、いっそ本当に今すぐ浄土に行こうと私たちは思えるだろうか。答えは否である。かつて唯円大徳は同じ悩みを親鸞聖人にぶつけた。すると親鸞聖人は『唯円坊おなじこころにてありけり』 と仰ったという。感動した唯円は、のちにそのことを「歎異抄」に記した。

「住みにくい世界」とかいいながら、心底離れたいと思わないのがわたしたちの根性である。実はわたしたちの願う「住みやすい社会」とはコマーシャルに代表される「虚飾の世界」にすぎない。若さ・健康・永遠、果ては癒しという美辞麗句に囲まれ溺れ、生まれた意義を考えることにフタをし、生きる喜びを求めることを先延ばしにする世界。実は真実に暗い生き方なのである。

聖人は「(阿弥陀様は)我々のように急ぎ浄土に生きたいとも思わない者を特に憐れんでくださるから、いよいよ頼もしいのだ」と続けられた。

「いとふ」は「厭う」でもあるが、「愛う」でもある。大切な、という意味である。

この世に生き・憂いながら、それこそが大切な本願からの「たより」であると知らされる。目を背けてはいけない。先延ばしにしてはいけない。(2008年10月)

いざいなん まきょうには とどまるべからず

帰去来 魔郷にはとどまるべからず 2008年9月

「帰去来」とは陶淵明の漢詩に有名な言葉である。陶淵明は念願の役人生活を得ながらも、その窮屈さに田舎に隠棲してしまった、その心境を漢詩に「帰去来(かへりなんいざ)」と詠んだという。

宗祖親鸞聖人はその著「教行信証(顕浄土真実教行証文類)」の中において、善導大師の言葉からこの言葉を引用されている。そこには「帰去来(いざいなん)、魔郷にはとどまるべからず」と続く。

我々の住むこの娑婆はいわば「魔郷」である。自らが吐いた糸で自らを縛るがごとき魔郷である。また悲しいことにその事実に目をふさぎ、あるいは気づかずにいるわたしたちである。

秋彼岸の季節がきた 。「暑からず寒からず(吉崎御文)」のこの時期、心静かに手を合わせ、私はどこからきてどこへ行くのか、そしてどこへ帰るのかをしみじみと考えてみるのもよい。

「帰る」とは当たり前の感覚だが「帰れる場所」が必要であり、そこに向かっていないと成立しない。ただどこかへいくのであればそれは「移動」である。移動に目的がなければ「さまよっている」だけのことである。私たちはさまよっていないか。とどまっていないか。 (2008年9月)

やがてしぬ けしきはみえず せみのこえ〜ばしょう〜

やがて死ぬ けしきは見えず 蝉の声〜 芭蕉 〜 2008年8月

私たちにとって「生活」とはなんだろうか。…朝起きて歯を磨いて、ご飯を食べて会社へゆく、または家事を行う…そう連想する人は多いだろう。

しかし、かつて訓覇信雄(くるべ しんゆう)師は「そんなものは生活ではない」と一蹴した。生活を2文字に分けると「生」と「活」である。我々は「生」きて「活」動しているのだ。

だから我々が連想する生活とは単なる「活動」にすぎない。そこに我々が「生きている」ということがなければ本当の意味で「生活している」ということにはなり得ない。

社会において悲しい事件が後を絶たない根本には「本当に生きる」ということに「活」の視点からしか答えを提示できない、現代社会の意識と姿勢があるように思う。

そしてその現代社会を作り出しているのは、まぎれもなく私たちである。「私の日常は何かが違っている」そう思えた人は幸せである。それは「生」からの、本願からの呼びかけである。

本当に生きるとはどういうことなのか。蝉は短い一生を精一杯「生きている」。蝉からも教えられる。 (2008年8月)

つみのみを かにも くわせぬ ぼんぶかな〜 くぶつしょうにん 〜

罪の身を蚊にも喰わせぬ凡夫かな 〜 句仏上人 〜 2008年7月

先日、ある方からこんな話を聞いた。大きな屋敷に住む老夫婦が、息子たちと別居、マンション住まいを始めたというのだ。せっかく家があるというのになぜ、と問うと、共に暮らすのが「互いに」苦痛だからという。

近代文明は不条理を排することを目的に発達してきた。最初は、闇を照らす灯りや洗濯、掃除など、ささいな日常の不便をうまく解消する程度のことが目的だった。しかしそれはやがて徹底され、自己中心の世界を生み、とうとう最後には家族の温もりすら不条理なものとして切り捨ててしまったようである。

生きている限り、私たちは誰かとすれ違う。時には肩がぶつかることもあるだろう。あたりまえのことである。だが、この当たり前のことを受け止めることが実に難しい。それは「生きる苦痛」と「生きる温もり」が表裏一体であるからだろう。

世間では極めて痛ましい事件が相次ぐ。だがメディアも、私たちも、事件を単なる不条理と処理し、「よそ事」として切り捨てようと躍起になっているように見える。

今こそ気づくべきである。切り捨てている私たちが少しずつ切り捨てられているのだということを。そんな「罪の身」をかなしみ、「我がごと」として省みなければ、この時代の闇はいつまでも見えてこないと感じる。(2008年7月)

てをついて あたまをさげぬ かえるかな

手をついて あたまを下げぬ かえるかな 2008年6月

老舗料亭が倒産の憂き目にあった。実は私の勤務先のすぐ近所である。著名な料亭で、サービスは一流だと感じたし、料理も美味しかったと記憶している。

しかし、相次ぐ偽装と料理の使い回しが仇となって、負債を抱えて倒産した。女将は何度もテレビで謝罪をしていたが、結局最後まで何が問題だったのか本質がわかっておられないように感じた。

「頭が下がる」と「頭を下げる」では雲泥の差である。人間である以上、人生において過ちを犯すことは誰にでもある。しかし、その過ちに心底頭が下がらなければ、ただ頭を下げるだけで終わる。そうして問題の本質に気づかないまま、また次の過ちを犯す。ついにはそのまま一生を終える。それは自らの生命を侮辱することである。

さて、梅雨もせまり、ちらほらと蛍が飛び始めた。かえるが田んぼでにぎやかに声を上げている。いのちのいとなみである。小さな身体で人間に負けぬ大声で、我ここにありと必死に生きる姿に頭が下がる。 (2008年6月)

じぶんが えらいものと おもうと よのなかが くらくなる 〜そが りょうじん〜

自分が えらいものと 思うと 世の中が 暗くなる〜 曽我量深 〜 2008年5月

サービスが行き届いたこの時代、私たちは居ながらにしてあらゆるサービスを受けることができ、またそうであることが感覚的に当たり前となっている。

だからサービスの質が悪いものはすなわち「ダメなもの・つまらないもの」そうして私たちは他者を奴隷のように見下し、切り捨てることで現代を生きている。

私たちは誰しも「大切にされたい」という願いを持つ。だのになぜ、他者を大切にできない生きかたをしてしまうのだろう「仮想的有能感」という言葉がある。「有能感」とは他者を見下し、自分を有能と引き上げる姿、「仮想的」とは「事実とは違うように錯覚している」ということである。

自分を「えらいもの」と錯覚すればするほど、世の中は暗くなる。それはすなわち「私から見える世界が暗い」ということを意味する。

浄土の世界は見下さない。互いに拝み会うことよりはじまる。どんなに自分にとって都合のわるい事実も、一度素直に手を合わせてみる。そこに何かがみえる。少なくとも他を退けてばかりの私の身の事実に光がさすことだろう。曽我量深師は続けられる「一生涯師匠を持ち、親を持つ。そうしたならば、いつまでも若々しい心をもつ」と。 (2008年5月)

ひと しるもよし ひと しらぬもよし われはさくなり 〜 むしゃのこうじ さねあつ〜

人 知るもよし 人知らぬもよし 我は咲くなり〜 武者小路実篤 〜 2008年4月

3月も過ぎれば「梅は咲いたか 桜はまだかいな」と春のおとずれが切望される。「4月といえば桜」というほどに、桜はテレビでも新聞でも注目の的である。そして人々は桜に誘われ、冬眠から覚めたように家を出て、桜を愛でつつ、春の訪れを祝う。

しかし、桜は別に人間に見てもらおうとして咲くのではない。咲くべき時期が来たから咲くのである。桜にかぎらず花はすべてその時期を感じ取って自らを開花させる。人間はそれに気づかされることで季節を感じとる。いっぽうで人に気づかれることなくひっそりと咲き、散ってゆく花もたくさんある。かといってその花は桜にくらべて惨めな一生だったわけではない。花の人生を全うした点においては桜に決してひけをとらない。皆、与えられた生を一生懸命に生きているだけである。

さて、私たち人間はどうであろう。人間という「花」はいつも他人の目を気にして咲こうとしてはいないか。そして、挙句のはてに似合わぬ「花」をつけて悦にいっているにではないだろうか。どうやら「ただ咲くなり」というわけにはなかなかいかない。

春が来た。 花たちの素直さを見習いたいものである。(2008年4月)

じこが わからないひとは たにんを せめる じこが わかったひとは たにんを いたむ 〜やすだ りじん 〜

自己がわからない人は 他人を責める 自己がわかった人は他人をいたむ〜安田理深〜 2008年3月

翫湖堂発刊前夜の記念すべき、初掲示板。

掲示板のみの掲載でしたので、味わいを書いておりませんでした。(2008年3月)