掲示板のことば・2012年

みなさんは またれて いるんだ 〜さかい ぎいち〜

皆さんは 待たれて いるんだ 〜酒井義一〜 2012年12月

「年末」はいつもひたひたと後ろから迫りくる。そして気がつけばもう目の前にいる。人生のそのままのようだ。年末はその年の締め切りだが、人生の締め切りはいつやってくることやら。

誰もがそんな不安な気持ちを感じているのだろうか、それを振り払うようにこの時期はやれ「忘年会」だの「新年会」だのに一生懸命になる。

しかし考えて欲しい。過去を忘れようとしても、過去は消えない。それどころかそのまま繋がって現在の自分となる。

また、現在を放り出してただ未来を志向したとて、現在がはっきりしなければ未来もただぼんやりしているだけである。大切なのは「今」ではないか。今、私はどちらに向かっているのか。人生の現在地に迷う人間は、ただ忘却と憧憬のみに生きているように感じる。「現在ただ今」をいただくことで過去がはっきりと救われ、未来はくっきりと開かれる。

それは「日ごろのこころにては、往生かなうべからず(歎異抄)」と宗祖が仰るとおりである。惰性の「日ごろ」を超越した絶対的救済から、皆さんは待たれているのだ。今こそ合掌し、口に念仏を。 (2012年12月)

いつか わたしの あしもとは くずれる 〜 えのもと えいいち〜

いつか 私の足元は くずれる〜 榎本栄一 〜 2012年11月

榎本栄一氏の「終幕」という詩である。

これほど短く、そして力強く自らの事実を見つめた詩があるだろうか。そうだ、間違いなく私たちは日々「死ぬいのち」を生きている。誰もが自分がいつか死ぬことを判っている。

しかしそこから目を逸らして生きているのも私たちである。なぜならそうしないと日々生きている事が無駄になってしまうように感じ、恐怖に押しつぶされそうになるからだろう。

ところで、人生の4つの真実は「二度と繰り返せない」「誰にも代わってもらえない」「必ず終わりが来る」そして「その終わりがいつ来るかわからない」という。仏教、特に真宗の教えはこの「死ぬいのち」という真実を見つめるところに始まるともいえる。いのちの真実が見えたとき、成すべき生のあり方が見え、そして有ること難きこの人生を心の底から喜べるようになる。

いのちの真実にフタをして生きたところで、そこから逃れることはできない。ならば真っ向から受け止め、宗祖親鸞聖人と先達の遺して下さった短くも力強い言葉を共に頂こう。「南無阿弥陀仏」と。(2012年11月)

もんぽうは しのじゅんびではなく せいの かて である

聞法は死の準備ではなく 生の糧である 2012年10月

お寺まいりは「まだはやい」という人がいる。「もうすこし年取ってから」。それも結構だが、蓮如上人は『わかきとき、仏法はたしなめ』と仰る。なぜか。『としよれば、行歩もかなわず、ねむたくもあるなり』と。この真意は年齢によらず、そのうち聞こうなどと思っていると、本当に聞きたいときに聞けなくなっているかもしれないよ、ということだろう。

さて、今年も秋が来た。夕暮れを見ていると無性に「今」という時間がいとおしく感じられる。それは、同じ夕暮れが二度と来ないからか、それとも明日また夕暮れを見られる保証がどこにもないことを感じるからか。

先があると思って生きているうちは、聞法などする気にもならない。気持ちはわかる。だがそれは「今」を粗末にしていることではないか。今を粗末にする者は過去と未来を粗末にする者であり、そして人生を粗末にしてゆく。一度きり、 そして誰もが賜りながら、だれ一人その始まりと終わりを知らない人生。それでいいのか。

上人はこうも仰る『仏法をあるじとし、世間を客人とせよ』。とかく世間をあるじとし、仏法を客人扱いしている私たちには耳の痛い言葉だ。世間に目を奪われ眼前の「今」が過ぎゆくのををただ受け流すのか、それとも仏法にわが身を映して今を確かめる歩みをはじめるか。

それは聞法によってのみ明らかになる。 (2012年10月)

くがそとから ついてくると おもうているうちは くは なくならない 〜ほうし そうん〜

苦が外からついてくると 思うているうちは 苦はなくならない 〜蓬茨祖運〜 2012年9月

人生には4つの約束事があるという。「繰り返すことができない」「誰にも代わってもらえない」「かならず終わりが来る」、そして「その終わりがいつくるかわからない」。仏教の基本的な教えである四法印、すなわち諸行無常・諸法無我・一切皆苦・涅槃寂静はこのことを私たちに教えようとしている。この生老病死の現実を前に、私たちはまさに無力と云うほかない事柄にしばしば直面し、苦悩する。

かつて三十七歳の若さで失明を宣告された井出信夫さんは、その受け入れがたい現実に悩み、苦しみ、病院を転々とし、すべて先祖や家族のせいだと周囲にあたり散らした。誰にも理解されないという不安と孤独の中、文字どおり絶望の闇の只中にあった。

ところが現実を引き受ける機縁を得て、「闇の底が抜けた」という(「闇の底抜けた」樹心社刊)。出版された手記の大半は、苦しみ、悩む井出さんの姿が本人の語りによって生々しく描かれてゆく。しかしその最終章には、明るく生き生きとした井出さんの姿があった。

蓬茨祖運師は「苦しみをまぬがれるには、その苦しみを生かしていく道を学ぶこと」とも云われる。心の闇が照らされて、闇を闇と知らされる。苦は消せるものではなく、照らされ開かれるものだ。 (2012年9月)

こころみに いきをすって そらをみあげよ

こころみに 息を吸って 空をみあげよ 2012年8月

世間は怒りに満ちているように感じる。政治も経済も、そしてゴシップもしかり。新聞やテレビが報じるどれをとってみても、私たちがそれを見る姿勢に「怒り」が満ちているではないか。

怒りは喜怒哀楽のひとつ。私たちの感情表現である。ゆえに私の意志の力ではどうしようもなく、突発的に現れる。仏教ではそれらを煩悩というが、特に貪欲(むさぼり)・瞋恚(いかり)・愚痴(そねみ)の三つの毒(三毒)を挙げる。親鸞聖人は「いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」と三毒に生きる我々の姿を的確に言い当てられた。どれほど正義感に燃えようと、怒りは煩悩のひとつに過ぎない。

ひどい世の中だと他者を怒り罵るのは簡単だが、その世の中を構成している最小単位はほかならぬ三毒に満ち満ちた私であることに気づかなければならない。さもないと自分勝手な正義とやらを振りかざしているだけに終わる。「苦が外からついてくると思うているうちは苦はなくならない」とは蓬茨祖運師の言葉だが、所詮人間は自分が吐き出し自分が浴びる毒で自他共に苦しんでいるだけなのかもしれない。

さて、怒っている人は息も浅く健康に悪いともいう。ためしに深呼吸して、広い大空を見上げてみてはどうだろう。 (2012年8月)

しゅっぱつは あしもとからなのに ひとはすぐ あたまで あるこうとする 〜ひらの おさむ〜

出発は足下からなのに、ひとはすぐ頭で歩こうとする 〜平野 修〜 2012年7月

かつて、作家の高史明氏のもとに中学生が訪れ「死にたい」と言った。普通なら必死にとどめるところだろうが、氏は逆に中学生に「死にたいといっているのはどこか」と問いかけたという。

つまり「死にたい」とは、所詮本人の頭の中に浮かんだ声にすぎないということだろう。彼が自分を見捨てても身体は死にたいとは言っていない。彼の絶望や思いはお構いなしに身体はその瞬間を生きようとしている。そしてさらに、彼の存在を支えている大地は、彼が気づくと気づかないとに依らず、彼を生かしめている。この「超我」ともいえる力に現代人はあまりにも無自覚ではないか。いや、幾度となく自覚したはずが、どうやら今また忘れかけているようだ。自然がひとたび牙を剥けば、我々の存在はひとたまりもないというのに。

大地なくして生きられないにもかかわらず、大地を裏切り、大地に甘え、大地に隠し、それを是とする人間。存在の足下をいとも簡単に切り捨てるこのあさましい根性は、どこまでも暗く、根深い。

高氏は中学生に「大地の声が聞こえるまで歩きなさい」といったそうだ。頭で理解するのではない。普段見向きもしなかったわが足の裏で「私は頭の中だけで生きているのではない」事実を感じる。まさに本願によびさまされる世界を感じることが大切なのだ。 (2012年7月)

すてきれない にもつのおもさ まえうしろ 〜 たねだ さんとうか 〜

すてきれない 荷物の重さ まえうしろ 〜種田山頭火〜 2012年6月

種田山頭火の一生は想像を超える「喪失の歩み」であったと思う。幼き頃の母の自死、裕福だった生家の離散、借金苦からくる親族の自死、突きつけられた妻との離縁…全てを失った彼は電車妨害騒動ののち、縁あって仏門に入り、放浪の旅に出る。まさに「何もない」ところから始まったその歩みは、広大自由な句の世界を遺し、のちの人の胸を打つ。

しかしこの句はどうであろう。それほど失い続けた彼にも、まだ捨てきれぬ荷物が前に後ろにあるという。無論見たままにわずかばかりの旅支度もそうであろうが、句の間からは人とのつながり、その中にあるおのれ自身といった、目に見えぬものを感じさせる。

無縁社会などとうそぶいてみても、人間はどこまでもつながりからは離れられない。それが「身」というものである。そしてそのつながりは、かならず場所を伴う。それを「土」という。宗祖親鸞聖人が大切にされた、身土に生きる人間の実相である。

さて、私たちの身の置きどころはどこだろう。そして捨てきれぬ縁に包まれたこの身ををどこへ運ぼうとしているのだろう。山頭火は謳う「どうしようもないわたしが歩いている」。

如来はそんな私たちを静かにご覧になる。 (2012年6月)

こはおやの いうようにしないが おやのするように なる

子は親のいうようにはしないが 親のするようになる 2012年5月

むかし「新人類」と呼ばれていた世代であった。もう二十年以上昔のことだ。新人類とは決して褒め言葉ではない。それまでの常識では括れない志向性をもち、行動するのでそう呼ばれていたのである。つまり「今どきの若者は」と言われ続けてきたわけだ。

さて、それから年月が経った。今の若者は「宇宙人」というそうだが、何のことはない、同じ事だ。気がつけば自分が「今どきの若者は」と言う側に立っている。

そのように嘆く気持ちがわかる世代になって思うことだが、果たして社会は昔と比べてそんなに悪くなっているのだろうか。一説では古代エジプトの遺跡からも「今どきの若者は」という嘆き文句が発掘されたという。「子は親の鏡」という言葉があるが、むしろ「鑑」の字がふさわしい。この字には「手本にする」という意味がある。子どもは必ずしも親の望むようにはしてくれないが、子どもの行動をよくよく省みれば、私を手本にし、私の悪いところを真似ているだけではないだろうか。長く広い視点で眺めてみれば、単純な人間はいつも自分の背中を批判しつづけて来たのだともいえよう。

そのことを折に触れ「映し出し」、知らしめてくれるのが仏法である。『経教はこれを喩うるに“ 鏡 ”の如し(善導大師)』というように。 (2012年5月)

じごくいちじょう とおもうて みれば じごく ごくらく ようじなし 〜もり ひな〜

地獄一定と思うてみれば 地獄極楽 用事なし〜 森ひな 〜 2012年4月

地獄とは仏教で六道の一つに数えられる。現世に悪業をなした者がその報いとして死後に苦果を受ける所とされ、ふつう誰しも地獄に行きたいとは思わない。

ところが宗祖親鸞聖人は「地獄は一定(いちじょう)すみか(住処)ぞかし」と仰った。聖人の深い人間観と罪業感によるものである。

そもそも自分には地獄に行くほどの悪業がないというなら幻想にすぎない。私たちは存在するだけでも 数えきれぬ縁に支えられてあるが、無縁社会といわれるように、その支えを自覚できぬならば、それは生命への冒瀆、罪業ではないか。

また、地獄はよく脅し文句のごとくに使用される。「そんなことをしていると地獄に堕ちるぞ」と。果たして「誰も行って帰ったことのない地獄や極楽」を人間の都合に合わせて利用していいものだろうか。宗祖聖人の言葉は、そういう「概念の地獄や極楽」を否定したうえで、地獄も極楽も今の私を強制的に縛りつけるものでなく、いずれに向かうかをこだわるものでもなく、ただいま無明な、恥ずべき我が身を知らしめようとしてくださっているのだよ、と教えられるようだ。

念仏に人生を捧げた「妙好人」と呼ばれる一人・森ひなは、地獄だ極楽だと生き惑い、今あることを忘れて生きる現代人の実相を静かに見抜いていたのかもしれない。 (2012年4月)

くのうを ひょうじゅんそうび するもの それを にんげん という 〜 さかい ぎいち 〜

苦悩を標準装備する者、それを人間という 〜 酒井義一 〜 2012年3月

苦悩は人生のどこにでも転がっている。できれば苦悩に遇いたくないというのが人情である。しかし釈尊が「一切皆苦」とお示しになったように、苦悩は無くならない。誰もが知っていること。まさに私たちの「標準装備」なのだ。

ならば、苦悩を遠ざけようとせず、この苦悩を引き受けて生きる道を選ばなければならない。かつて宗祖聖人は「お念仏」というあまりに頼りないものを苦悩する私たちに託してくださった。あまりに頼りない念仏、であるにもかかわらず、聖人ご入滅後750年以上、私たちの祖先はこのお念仏によって生かされ、救われてきた。苦悩がそのままで苦悩にならない世界、それが念仏によって開かれてくる世界である。

もしも念仏を頼りないとしか思えない私がいるとするならば、宗祖が、また先達が喜び生きた人生をまだ謳歌しきれていないのかもしれない。まして「こうすれば苦悩は避けられる」などと、できもしない甘言に弄されているならば、それこそが苦悩であることを知らねばならない。

震災から1年。人生にはまさしく想定外のいろんな苦悩が襲いかかってくる。でももし「苦悩する身そのままが私」なのだ、と、いただける生活に目覚めるならば、これほどの救いはないだろう。 (2012年3月)

こどもは おとなになるけど おとなは なにになるんですか

子どもは大人になるけど 大人は何になるんですか 2012年2月

宮戸道雄先生のお話に出てきた言葉である。

この言葉を聞いた時、自らの半生を省みて「しまった」と思わず感じた。何も私が大それた失敗をしたわけではなく、むしろ何もない。順当に生きてきた、そんな意識である。しかしだからこそ問題なのだと思う。

私たち大人は、自らの理知分別でもって世の中を理解し、子どもより大人へと成長してきた。その歩みの間、正しい判断ができ、正しい理解がより早くできる人が優れた人であるとしてきた。そしてそれが当然のこととしてきた。

さて、ではその大人となったはずの私たちは何をしただろうか。環境問題、少子高齢化、無縁社会、原発問題、震災復興…。正しい判断ができるはずの大人が残したものは次の世代の子どもたちへのツケばかりではないだろうか。

今こそ大人のしがみつく「理知分別」の限界を思い知らねばならない。

子どもが大人になるのに必要なのは学びであり、知識であるかもしれない。しかし大人が必要なものはそればかりではない。冒頭の「しまった」はそれを言い当てられた気がしたからである。

さあ、かつての子どもたちよ、私たちは何になってゆくのだろう。 (2012年2月)

やりなおしのきかぬ じんせいであるが みなおすことが できる 〜かねこ だいえい〜

やり直しのきかぬ人生であるが 見直すことができる 〜 金子大栄 〜 2012年1月

二〇一二年の幕開けである。

新年にあたり、この一年についてあれこれ思いを巡らすのが年初の常だが、今年は何よりも昨年の震災・原発事故が脳裏に浮かぶ。震災から十ヶ月が経とうとしているが、復興はようやくその途についたばかり、原発事故問題は政府発表とはうらはらに現地の苦しみの声ばかりが聞こえくる。つまり1年近く経ってもまだ何も解決していないのが現実である。そこに加えて近隣諸国は政治問題でかまびすしい。ところが肝心の情報が皆無に等しいという我が国、我が政府。

行政府の危機管理能力の凋落、ここに極まれりといったところであるが、さてこれは人ごとなのだろうか。市民の立場からすれば「お上」がしっかりして欲しいということは当然の願いかもしれないが、そのお上こそ我々市民の代表ではなかったか。それがこの体たらくである。私たち一人ひとりがもっと強く自覚して「想定外」という言い訳を出さなくてすむようにどうすればよいかを真剣に問わねばならない。そういう時代なのかもしれない。

人間はあやまちを犯す生き物である。そして一度犯したあやまちはやり直しがきかない。しかし、大丈夫。見直すことはできる。たちあがれ日本ではなく、たちなおれ日本と。 (2012年1月)