掲示板のことば・2017年

ただ ねんぶつのみぞ まことにて おわします 〜たんにしょう〜

ただ念仏のみぞ まことにておわします〜 歎異抄〜 2017年12月

角界の暴力事件が世間で騒がれている。街角で人々は「真実を知りたい」という。さて、【真実・事実・現実】の3つの言葉で仏教的に見てみたい。

たとえば雨が降るとしよう。【事実】は単なる気象現象として雨が降っているわけだが、私たちは「雨が降って都合が悪い・雨が降って都合が良い」と見る。これを【現実】という。それぞれの都合(煩悩)を入れて物事を見ているのだ。よって煩悩で眼が曇っている人間に【真実】を見ることはできない。これが仏教の人間観である。

「煩悩は内なる他者」と呼ばれ、自分の内にあっても自分でそうそう制御できない。それが飲酒によって解放され、暴力となったとあれば、真実とやらは当事者ですらよくわからない、というのが事実であろう。あとはせいぜい、それぞれの現実を持ち寄って事実(のようなもの)に出遇うしか術はない。

歎異抄によれば、親鸞聖人はこの世の中に真実はないと感得されたという。煩悩で毎日右往左往している私たち。それを案じてくださる阿弥陀様からかけられた真実に手を合わせるよりほかはないとおっしゃるのだ。

それが念仏である。 (2017年12月)

2017年11月は休刊しました

しんじつの しんじんは かならず みょうごうをぐす みょうごうは かならずしも がんりきの しんじんを ぐせざるなり 〜 しんらんしょうにん〜

真実の信心は必ず名号を具す 名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり 〜親鸞聖人〜 2017年10月

「いくらお念仏(名号)がありがたいと言われても、する気にならん」「念仏っていったいなんや」こういうお問いかけを幾度も耳にした。実は私もかつてそうだったからとても共感できる。

お念仏とは何か。短いあの言葉にいったい何が含まれているのか。ほんとうにわからない。しかし、それでいいのだ。親鸞聖人は、つまりは「信心がなくても念仏はできるじゃないか」、と仰っているようである。それこそ、「うわのそらで」「心を込めず」「適当に」お念仏をしても、それだって立派なお念仏なのだよ、大丈夫。と仰ってくださっているように思えてならない。 むしろ、その逆を行うとき、つまり「意味を理解し」「心を込めて」「真摯に」お念仏をしようとするとき、私達の内心に浮かぶであろう小ずるい打算をずばり見抜いてくださっているように思うのだ。

尊敬する先生がかつて仰った言葉を思い出す。「理解してから念仏しようとするなら、理解する前に人生が終わってしまう」。

理屈ではない。私に先立って念仏は確かに伝わってきた。理屈っぽい現代、ついうっかりでもいいから、いちど、称えてみようではないか。 (2017年10月)

にんげんは あたまで いきているのではない もっと ふかいところに にんげんは ある 〜やすだりじん〜

人間は頭で生きているのではない もっと深いところに人間はある 〜安田理深〜 2017年9月

ある女性が絶望の末、自殺を決意した。死ぬ前にせめてもと髪をとかし、爪を綺麗にして決行を試みたが、どうしても死ねなかった。しばらくたってまた自殺願望が頭をもたげ、前回と同じように髪をとかしていたら、爪が髪にひっかかったという。「自分は死のうとしているのに身体が生きようとしてくれている」。ふと気づいたそうだ。

さて、新聞やネットでは実にいろいろと悩み絶望している人にであう。

その悩める一人ひとりにかける言葉はもたないが、経験上申し上げれば、どれほど絶望したとて、身体が生きようとしてくれているかぎり、一人ひとりこの世に存在することを願われていることは明らかである。だからどうか、日々安らかにあってほしいと望む。

いったい誰から願われているのかといえば、それは他でもない「自分自身の奥底」である。気づかないほど深い奥底から私たちは支えられて生きている。そういう存在全体を感じ、尊重できる機能が人間には必ず備わっている。

ただし、それは「頭」ではない。 頭は実に簡単に絶望するからだ。存在全体の深さをそのまま受け止められるかどうか。ここがとても難しい。 (2017年9月)

2017年8月は休刊しました

がっしょうして ごはんを いただけないひとは ふこうなひとだ

合掌してごはんをいただけない人は 不幸な人だ 2017年7月

異動で勤務内容が変わり、朝の連続テレビ小説を見られる機会が増えた。まあ、小さな幸せである。そこでふと目にした食事のシーン、きちんと合掌し、いただきますと言っている。当たり前の光景なのだが、ひと安心した。

というのも、うそかまことか、合掌して「いただきます」と言うことに抵抗を感じる人がいると聞いたからだ。「自分が金を払って食べるのに、誰に礼をいう必要があるのか」「合掌を強要するのは信教の自由に反する」が言いぶんらしい。ははぁ、経済原理にどっぷりつかると、ここまで人間の視野は狭く、鈍感になれるものなのか。

米作りには八十八の手順があると言われる。米だけではない、あらゆる事物は数え切れない条件によって成立している。そのことを仏教では「縁」と呼ぶ。縁は無量。計測できないものである。そんなはかりしれないものに支えられて、私の一挙手一投足はいままさに存在を“赦されている”。

とても数え切れないから手を合わす。宗教以前の「感性」だ。 もしそこに抵抗があるというなら、自分が生まれてきたことを否定しているにひとしい。たしかに「不幸な人」である。 (2017年7月)

にぎって はなして むこうから 〜くるべしんゆう〜

にぎって はなして 向こうから〜訓覇信雄〜 2017年6月

ある推進員さんから教えてもらった言葉である。昭和の傑僧・訓覇信雄氏がよく語っておられたそうで、仏法の味わいをよく表した言葉である。

“にぎって”とは、人間の知恵である。「恵」はその字形から糸車に通じるとされる。「糸車のように知識を身に巻きつけ、理解し、覚え、活用する」ことでしか判断ができない私たちは、まさに「にぎって」おかないと安心できない。そのくせ、自分の知識で追いつかなくなれば「難しい」と放り投げる。

“離して”とは、仏の智慧であり、「慧」はその字形から2本の箒(ほうき)に通じる。「ほうきのようにこれまで積み重ねた知識を一旦掃き寄せ、本当に大切な智慧に出遇う・気づく」ということだ。親鸞聖人が「ひごろのこころにては往生かなふべからず」と仰ったように、我々の日ごろの知識にぎりしめるばかり、にわか専門家を生むばかりである。ちょっと離してみればどうだろう。

仏教は何も小難しいことを述べていない。道元禅師も「目は横に、鼻は縦に」と仰る。実はあたりまえのことである。知識が邪魔してあたりまえのままに見えない私たちを仏は“向こう”がわから静かにご覧になっている。 (2017年6月)

てんめいに やすんじて じんじを つくす 〜 きよざわ まんし 〜

天命に安んじて人事を尽くす〜清沢満之〜 2017年5月

元の言葉は「人事を尽くして天命を待つ(読史管見)」である。人が力を十分に尽くし(人事)、結末は天命(運命)に任せるという。だが明治時代に真宗教学を刷新した清沢満之は「天命に安んじて人事を尽くす」。人事と天命が逆になっているわけだ。

私たちはまず「自らの努力」を尽くさねば、尽くせるはず、と言う発想に立つ。そしてできない者は弱く、情けないと考える。「他力本願」を誤用する人はこの発想しか持てていない。

「自らの努力」とやらを真に突き詰めればどうなるか。親鸞聖人はそこに気づかれた。私の努力とは“あらゆる他によって賜った機会”にすぎない。「自力」とは目に見えぬ無量の「他力」に支えられた上の出来事ではないか。清沢はこの思想に出遇い、そしてそれを絶対他力と呼び、安んじた。

日々人事を尽くせているのは、人事を尽くせる他力に安んじていられるからなのだ。人事を先に立てれば、きっと天命に対して不安と不満が残るだろう。しかし天命に安んじた人事からは、いまこの瞬間を悠々と自適に生きる世界が見いだされる。尽くせてよし、また、尽くせずともよし。と。(2017年5月)

2017年4月は休刊しました

きょうかいに いったからとて あなたが きりすとしゃに なるわけではない あなたが ガレージに つったってたって じどうしゃになるわけでないのと おなじである 〜 ギルバート ケイス チェスタートン

教会に行ったからとてあなたがキリスト者になるわけではない あなたがガレージにつっ立ってたって自動車になるわけでないのと同じである〜G.K.チェスタートン〜 2017年3月

かつてこの言葉に感銘と衝撃を受けた。言葉の主はギルバート・ケイス・チェスタートン。江戸川乱歩も賞賛したイギリスの推理作家・随筆家である。厳格なカトリック信徒で、残念なことに大の仏教嫌いであったそうだが、この一言には返す言葉がない。

なぜなら彼の言葉をわが身にひきあててみれば、まさしく「真宗の寺に生まれたからといって必ずしも念仏者とはいえない」のだから。さらに住んでおれば坊さんかといわれればと決してそうではない。つまりどう歩み、どう学び、どう考え、そして、どう出遇ったか。そのことが大切なのだ。

失礼を承知で申し上げれば、それはご門徒とて同じ。ウチの宗派?親鸞?なんまんだぶつ?…さて、それでよいのか。もちろん、そういう方こそ、法蔵菩薩・阿弥陀如来が待ち続けておられる尊い方々であるわけなのだが。

不思議のご縁で同時代に生を受け、縁を賜った。寺(真廣寺)がどういう場所になるかは、住職だけでは何ともならない。共に考え、歩んでくださる皆さま方との出遇い・生涯のお仕事と思う次第である。

「おまえは寺にただ突っ立ってはおらんか・大丈夫か」と、自らに問いながら新たな歩みを進めたい。どうか皆さまのご指導とご鞭撻をよろしくお願い申し上げます (2017年2月28日、住職を拝命した記念としてこの文章を掲載しました)。 (2017年3月)

2017年2月は休刊しました

じょうこうみょう まんぞくすること きょう と にちがつりんの ごとし 〜 じょうどろん 〜

浄光明満足すること鏡と日月輪の如し〜浄土論〜 2017年1月

太陽や月は丸い形をしている。鏡も古い鏡は丸が多い。丸とは「円満」を指す。だから天親菩薩(世親)は『浄土論』の中で、「浄土とは浄らかな光が満ち足りて、円満の世界である、ちょうど太陽や月、そして鏡がまるいように(掲示板取意)」と譬えられたのだろう。

さて、円満とは「欠けているところのない」状態である。かたや、私たちの日常は常に「欠けている」ようである。お屠蘇を飲んで満ち足りたのもつかの間、欠けたものを埋めあわせるように、いそいそ出かけてみたり、年頭所感・わざわざ自分の欠けているところを探し、努力目標をたててみる。はたまた寝正月で終わってみれば「何だか勿体無い」と悔いてみたりする。

いったい、何が欠けているというのか。如何にたくさんの食べ物があっても食べる量は1人前を超えられないというのに。どんな広い家屋敷に住んでも、座れる場所は1人分であるのに。財産だって、欠ければ使えぬと不満を言うくせに、満ちれば使わず貯めこむばかり。はたまた運用しては、欠けはしないかと不安だらけ…。

「円満の世界にあって、気づかず不足を吠えたてている」。これが人間ではないか。実は、欠けているのに気づくべきは私たちの「内面」なのかもしれない。(2017年1月)