掲示板のことば・2010年

かねためて なにをするぞと おもいしに ぼんのうふやす ことばかり

金ためて 何をするぞと思いしに 煩悩ふやす ことばかり 2010年12月

年末整理をしていると、たまに古い新聞に出遇うことがある。時には戦前や戦中の新聞を目にすることもあり、その時の時代世相を反映していて実に面白いのだが、ふと思った。「こんなふうに今の時代世相を我が子・我が孫が目にするとき、どう感じるだろうか」と。

世はまさに「経済最優先の世相」。毎日毎日、為替と株の値動きに一喜一憂し、挙句それを苦にして自殺するひとまでいるという。「金がすべて」。これが後世に引き継がれるであろう今の世相ではないか。

釈尊の言葉に、『有田憂田、有宅憂宅』とある。私たちは田(=財産)や宅(=家)が無ければ、せめてそれがあればこそと憂い、逆にあったらあったでそれらを失わないかと憂えるものであるという。まさに今の世相を言い当てているかのようである。むき出しの欲望、際限のない経済追求。経済効率優先による人間の切り捨て…果たして人間的苦悩からの学び、人としてあるべき姿の継承はどこへいってしまったのだろう。

蓮如上人の時代、大阪の堺に日向屋という商人がいたという。日向屋は強欲のあまり財産を守ることに終始し、とうとう蔵で孤独死したという。彼の死の報に接した蓮如上人は、「堺の日向屋は、三十万貫持ちたれども、死にたるが仏にはなり候うまじ」と言われたという。人生の目標が経済すべてであるとするならば、これほど人として生まれたことを無駄にしていることはない。(2010年12月)

すずしさや みだじょうぶつの このかたは 〜 こばやし いっさ 〜

涼しさや 弥陀成仏の このかたは 〜 小林一茶 〜 2010年11月

この句の「涼しさ」は残暑にふとそよぐ風の涼しさをあらわすものであるという。ならばいささか今の季節には時期はずれかもしれない。だが季節の移ろいを肌で感じる句なのだと捉えれば、この句の味わいは時期を問わず、また時代も問わないと思う。

省みればあれほどの猛暑もいつしか遠ざかり、「急に冷え込みましたなぁ」と挨拶を交わす。「秋はどこにいったのか」と環境の変化を嘆く。地球温暖化、環境保護とうたうことは簡単だが、もはや文明生活(=環境破壊)を手中にした限り、私たちがそれを手放すことは容易ではない。破壊の張本人が高みに上って声高に地球を守れなどとは、愚の骨頂ではないだろうか。いったい人間は何千年この無明な生活を繰り返してゆくのだろう。

阿弥陀仏はそんな私たちのありさまを救おうと、五劫という永い間、ひたすら思惟くださり、成仏されたという。人間の思考や歩みをはるかに越えた、悠久の過去から、そしてまだ見ぬ未来へ向けて大きな願い(本願)をかけてくださっているという。

私たちはただ念仏生活を通してのみ、本願をいただくことができる。いや、今のごとき念仏なき生活からは一茶の感じた風ほども聞きとることはできないかもしれない。さて、念仏していますか。 (2010年11月)

うち しんあれば そと やすらかなり

内 信あれば 外 安らかなり 2010年10月

現代人はいつもイライラしている。この苛立ちは何か。それは漠然とした不安・焦りであろう。ではその不安とは何か。それは「自らの中心・信じるもの・拠るべきところ」が曖昧だということだ。

近代科学の恩恵により、科学こそ万能と信じた現代人は「私の中心」に科学を据えた。科学は事物を客観的に分析する。いかにも私たちは他者を事物の如く分析することが得意である。他者に限らず会話や文章にしても科学的分析・客観的根拠は合言葉のようである。

だがどれほど他者は分析できても、誰もが自らを分析されることは好まない。その理由は皆すでに感じ取っている。そもそも人間存在は科学などという枠組みに収まりきらないということだ。所詮科学は「私の中心」としてはあまりに「役不足」なのである。

拠るべきものに拠っておらぬ私たちの内なる真実(=いのち)はそんな私たちの姿に不安の悲鳴をあげている。私たちの苛立ちの根源はここにある。

ん坊はわずかな空腹感・眠気だけでも泣き声をあげる。大人にとっては微々たる問題も、本人にとってはそのいずれもが不安だから泣いて母親を求めるのだ。現代人の不安・焦燥感も子が母を求める姿に似てはいないか。真に頼るべき「内なる信」を見失っている現代人に向け、本願=母なる仏が、いのちが呼びかけてくださっている。あなたの「信」は大丈夫ですか、と。 (2010年10月)

きのうを おうな あすを たのむな きょうを いきよ

昨日を追うな 明日をたのむな 今日を生きよ 2010年9月

夏の法話によくある題材で「幽霊」がある。幽霊とは後ろ髪を引かれ、手を前に出し、そして足が無い。これは私たちの姿であるというのだ。つまり、過ぎたことにくよくよし(後ろ髪)、未来への希望だけを望み(手を前に出し)、最も大切な今日を生きていない(足がない)というのである。まさにそのとおりではないか。

先日還浄なされた師は「仏法は『三世の救い』である」といわれた。三世とは「過去・未来・現在」のことをいう。現在だけを何かで満たそうとしても空しいだけである。また「過去」は忘れ去りたい、振り切りたい思いで詰まっていることが多いものだが、過去が現在にとって意味あるものとして捉えられない限り、現在の、そして未来の救いもありはしないのだ。

過去と未来は決して現在と切り離せない。私達が「今」あるということは、過去の結果である。そして未来は今この瞬間からの過去が作り上げてくれる。さあ果たして現在(いま)、私たちはそんな仏法に生きているのか。出遇えているのか。(2010年9月)

すべての じりきは たりきに ささえられて あった 〜 すずき あやこ〜

すべての自力は 他力に支えられてあった〜 鈴木章子 〜 2010年8月

「努力すれば必ず報われる」という意味合いの言葉をよく見かける。何も今に始まったことではない。いつの時代もこういう言葉たちは姿を変えて現れ、人間を勇気づける。確かに生きることに迷った時、こういう言葉に救われることは多い。

だがこういう言葉は「仏教語」ではなく、単なる「道徳」にすぎない。道徳は道を修める姿勢を教えてはくれるが、人生の真実については態度を濁すものである。努力したとて必ずしも報われないことがあることを私たちは知っている。従ってこれらの言葉を「仏教語」と標榜することは決して許されることではない。残念ながら昨今の仏教を標榜する思想にはこの感性が抜け落ちているかのように見える。

真実の言葉は時に人間の都合を超越する。だから一見理解しがたいものもある。それでよい。人間の浅薄な「理解」を超えたところに人生の真実に対する光が届く。その真実に出遇った人が、人間を超えて発することば、それが法語である。鈴木章子氏は癌に侵されるまで自らの力(自力)に頼って人生を切り開くことを是とされていたという。しかし、それでは間に合わないことをまさに他力によって知らされ、真の念仏者としての歩みを始められた。

さて、残念ながらいまなお「他力本願」を「他人の力に頼ること」と大いに勘違いしている人が多いという。他力とは自力を超越してある絶対的はたらきである。他力=他人の力という俗的かつ単純な感性は捨てねばならない。人間は自分でもなく、他人でもなく、大いなるいのち(寿)に願われ支えられて、今、ここにあるのだ。(2010年8月)

ただ しんじんを ようとすと しるべし 〜 たんにしょう 〜

ただ信心を要とすと知るべし〜 歎異抄 〜 2010年7月

昔、レポートで「私の願い」というお題を貰ってひどく悩んだことがある。

なぜなら考えれば考えるほど、人さまに御披露するような願いなど持ち合わせていない自分に気づかされたからである。せいぜい、欲しいものが手に入り、身辺がすこし便利になれば…と考えたり、自分や家族が健康で長生きすればと思ったり…。

気がつけば、どの願いも叶えられればすぐに色あせる。または叶えられても仏法の道理(生老病死)の上ではいつかは手放さなければならないものばかりである。

私の願いとは私の人生の要(かなめ)である。要とは譬えていうなれば扇子の留め具である。扇子の骨はそこで束ねられ、扇子の形を成す。要が失われれば、扇子は当然その姿を失う。私が要を見失う時、私は私という人間の姿を見失うことになる。

宗祖は「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもってそらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」と教えられる。「そらごとたわごと」に日々しがみつく私たちは、果たして何を要に生きているのであろう。今こそ「念仏の信心を要(よう)とする」とはどういう生き方なのかを我が身に問うべき時代である。 (2010年7月)

無明とは確信の感覚なのです 〜 藤場俊基 〜 2010年6月

準備中・テキストデータが失われましたのでサルベージしています。 (2010年6月)

口あいて 落花眺むる 子は仏 2010年5月

準備中・テキストデータが失われましたのでサルベージしています。 (2010年5月)

トマトがメロンになろうとするのを迷いという 2010年4月

準備中・テキストデータが失われましたのでサルベージしています。 (2010年4月)

人間がこんなに多いというのになんと人間に会うことが難しい ~米沢英雄~ 2010年3月

準備中・テキストデータが失われましたのでサルベージしています。 (2010年3月)

牛になることはどうしても必要です ~夏目漱石~ 2010年2月

準備中・テキストデータが失われましたのでサルベージしています。 (2010年2月)

善とは何かあと味のよいことだ 悪とは何かあと味の悪いことだ ~ヘミングウェイ~ 2010年1月

準備中・テキストデータが失われましたのでサルベージしています。 (2010年1月)