「真実」を軽々しく口にする人が増えた。しかし、はたして真実は人間の手に入るようなものだろうか。
親鸞聖人は人間の相を「偽(ぎ)」と「仮(け)」で明らかにされた。『どこまでも「私は正しい」と自分に言い聞かせ、一方で相手を切りつける“偽”』と、『何かにすがり、利用して自分もそのおこぼれにあずかろうとする“仮”』は、古今東西、誰しもが持っているありのままの相(すがた)、真実とはまるで反対の「闇のすがた」だ。
だがそういう自らの内面に潜む“偽と仮”、つまり闇の相(すがた)を正しく直視し、考える者は、偽と仮である自分をよく知るがゆえに、闇に溺れてしまうことがないという。方向としては真逆なのだが、それが最も真実に近いところにいるのだという。
真実は生涯求め続けるものであって、手に入れたり見つけたりするゴールがあるものではない。ただ、こうしている今も、真実の側は、私たちを待ち続けている。
死期を悟った人が「もうだめだ」と呟く時「そんなことはありません・頑張って」と聞くと突き放された感がするらしい。昔、作家・遠藤周作は医師・日野原重明との対談で「私もやがて逝くのですから」「私もやがて、あなたと同じように死ぬのです」と言葉の端々に「ほのめかすことの重要性」を説いた。
ここで大切なのは死にゆく者の辛さに対する“苦しみの連帯感”である。それはお経で「倶会一処(ともに一つの処で会う)」と説かれるごとく。
人はどこかからきて、今を生き、やがてどこかへ帰る。さて、人生はそんな五十年、百年の間“だけ”の出来事だろうか。むしろ、私が生まれるその前から続いてきた長い時間と、私を生み出してくれた深い生命の営みは、目の前の命を超えた悠久の寿(いのち)の確かさを教えてくれている。
「今だけではない」、この微(かす)かな感覚に、静かに手を合わせることこそ「人生の一大事」ではないか。
「3分でわかる」「30秒でささる言葉」など、目を引く言葉がネットに並ぶ。料理ですら事前の仕込みなくして3分で完成するはずがないのだが、こと言葉や思考に対しては、人は疎かになりつつあるようだ。
かつて、テレビニュースの原稿は小学四年生でも伝わるよう作文されていると関係者から聞いた。どこまでも短く、要点をまとめた派手でわかりやすい情報ばかり求める現代。でも問題を考えるにも思考が単純だと結論も単純になってしまう。世界が浅く薄くなりゆく傾向を憂う。
「哲学本来の方法は、解決不可能な問題を解決不可能なままに明晰に把握し、次に、何も付け加えずに、たゆまず、何年もの間、なんの希望も抱かずに、待機のうちに、その問題をじっと見つめることにある」は、シモーヌ・ヴェイユの言葉だが、深く優れた理解と結論を得るには相応の時間と黙考が必要だ。
叡智とは実に「微かなもの」だから。
「人間いつかは死ぬ」「私もいずれ死ぬ」と、頭の中で理解している人は多い。だが考えてほしい。「いつかは・いずれは」という言葉を使っている時点でこの問題をひたすら先送りしてしまっていることを。
そう言われても実際に死ぬ時の気持ちなんて、その状況になってみないとわからない。でもイメージをもらうことはある。それは身近な人の死だ。言葉を超え、無限に触れさせてもらえた大切な時間。実は私たちが有限であることを知っているのは無限に触れさせてもらえたからだ。
忘れたり先延ばししても、人は有限を生きざるを得ない。そう教えてくれたのは、無限の過去から連なるいのちの営みだ。そして今、この瞬間、「なにか」を無限の未来に向けて遺しつつあるのがこの「私」だ。
本当の無限は私の過去と未来の両方に広がっている。今この瞬間から連なる、壮大な有限と無限を実感できているか。
よあけのまえは やみにきまっている やみにさきだつ よあけはない ことである 〜 たかみつ だいせん〜
※ことばは再掲です→以前の掲示はこちら
感染症との戦いも3年目を迎える。誰がこんなに長い戦いになると思っただろう。そして、この期間に起きたことはというと、一見すると仲が良さそうで平和に見えていた世界が、実は分断と差別の塊であったという悲しい事実だ。
そして今、その痛みに耐えかねたのか、世界では暴力によって現状を変更しようとする行為、「戦争」が起きた。それは人間として絶対に選んではいけない、弱くて愚かで何も生み出さない行為だというのに。
ただここで仕掛けた国だけを一方的に責めてはいけない。なぜなら人は賛成する時も、反対する時も、どちらにあっても「相手を遮断する」悲しい線引きを作り出してしまうからだ。それこそが本当の「闇」だ。
時代から闇を知らされた訳だが、真っ暗だと思った時こそ、どんな些細な明かりでも感じ取ることができる状態にあるともいえる。自分の中の「闇」を見つめてゆこう。
ふたつあるものは みちではないのであって ひとつのものをみちというのです 〜やすだ りじん〜
「道を極める」という言葉があります。一つのことに打ち込み、その真髄を体得した達人を表現するときに使われます。一方で、私たちが普段使う「道路」には「路(ろ)」という字も含まれます。「路」という字は「各々の足」と書くように、あれこれと脇道を選べるがゆえに、「迷路」にも通じると言われます。
本来の「道」には、「人としてあるべき姿」という意味も込められています。そう言えば、達人と呼ばれる人は共通して謙虚です。はた目にはその人の努力で成し遂げたことでも、「周囲のおかげです」と手を合わせる。技だけでなく、人間としての在り方が「道」と一つになっているのでしょう。
七高僧の第一祖・龍樹菩薩は、仏道を歩む在り方を、険しい陸を行く「難行の路(ろ)」と、船に乗って海を行く「易行の道(どう)」に分けられました。親鸞聖人も『正信偈』でこれを引用されています(顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽)。
自分で切り開こうとする「路」は選択肢が多く、険しく、迷います。しかし、阿弥陀仏にお任せする「道」は一本です。どんなに辛いことでも「私に与えられたご縁」として受けとめる時、安らかな大道(易行)が開かれます。逆に謙虚さを忘れ「俺がやった」と誇った瞬間、その「道」は再び迷い多き「路」へと変わってしまうことでしょう。
ただしい だけでは なかまは ふえない 〜やまざき りょう〜
「地域共創」を掲げる山崎亮氏は、これからの時代を「参加の時代」と名付けています。行政や政治が地域を良くしてくれるのを待つだけでなく、そこに住まう私たちが主体的に参加した方が、持続可能で有意義な成果を挙げられるからです(『縮充する日本』PHP新書)。
人が参加するために、理念や活動の「正しさ」が必要なのは言うまでもありません。しかし、正しさだけで人は動きません。なぜなら「自分だけの正しさ」に固執することは、他者の入る余地をなくし、世界を閉ざしてしまうからです。正しさを振りかざすことは、かえって人を孤立させてしまうのです。
さて、世界的感染症と付き合い始めて2年目。「ウィズコロナ」と呼ばれる変革を受け入れる時代がきています。これこそ、一人ひとりの参加が必要な変化でしょう。
そんな中、ワクチンやマスクの是非など、それぞれの「正しさ」がぶつかり合っています。人は正面から向かい合って対立すると、最後まで互いに潰し合ってしまう悲しい性質も持っています。
だからこそ、対立するのではなく「隣る人(となる・ひと)」となりませんか。横に並んで同じ方向を見つめ、互いの事情や痛みに深く思いを馳せる――そんな「憶念(おくねん)」の心を持ってみてはどうでしょう。