掲示板のことば・2013年

のれば ひと あるけば くるま じゃまになり

乗れば人 歩けば車 邪魔になり 2013年12月

狭い道で自動車と出くわした。自分が徒歩だったので、細い段の上に乗って道を譲ると、あいさつもなく走りさった。「なんてやつだ。本当に車は邪魔だな」と腹を立てた。

かと思えば先日、自動車である所へ出かけたが、遅刻しそうになった。ところが近くまで来たものの、狭い道の真ん中をご老人が悠然と歩いている。どうやらこちらには全く気がつかない様子だ。時間はすでにギリギリ。クラクションを鳴らしてびっくりさせてもと思い、結局イライラしながら後ろを付いていった。内心は「まったく邪魔だ、もう少し気をつけて歩いたらいいのに」と腹立ちつつ。

さて「徒歩の私」も「自動車の私」もどちらも同じ私であるが、どちらの側にあっても腹を立てている。いったい誰が邪魔だというのだろう。どこまでも「自分の都合」で他者を評価し、選別する人間。そんな中で互いに排除し排除され、いつしか人間であることを見失った社会を作る…それを地獄というのではないだろうか。「私たちは地獄を持ち歩いている」と先日教えられたが、そのとおりだ。私の苛立ちは、苛立つ私にのみ、ついてくる。

現代人は怒りっぽいという。ただその怒りは、常に私の足もとから生み出しているのだと気づく事が大切である。長い時間と広い感覚をもつ南無阿弥陀仏は、そういう私たちを「いたずらもの」とほほえましく、あたたかく見守ってくださっている。

年の瀬、急ぐ気持ちを少し抑えて、心しずかに、行く年来る年を見守りたいものだ。 (2013年12月)

よのなかは くうて かせいで ねて おきて さて そのあとは しぬるばかり 〜 いっきゅう 〜

世の中は 喰うてかせいで寝て起きて さてそのあとは死ぬるばかり 〜 一休 〜 2013年11月

とんちで有名な一休さん(一休禅師)の歌である。「そんなことあるものか、私は衣食住だけで生きているわけではない」と反論されそうだが、果たして本当にそうだろうか。

故訓覇信雄氏は「生活とは何か」と問われた。改めて言われて思い当たるのは…朝起きてあれしてこれして…つまり「喰うてかせいで寝て起きて」ばかり考えている私たちではないだろうか。それは単なる「活動」に過ぎない。残念なことに多くの人が生活といえば単なる活動、つまり収入とか健康、または娯楽が満たされることばかりを思いつくようである。

生活とは「生きて」「活動」していることである。だから今、生きていることの意味が本当に問われなければ、私たちはこの歌のままに人生を終える。蓮如上人と交流の深かった一休禅師は、その言動から何かと誤解されることが多かったと言うが、この歌もそうだ。一見、絶望的な表現だけれど、私たちのありさまをユーモラスに照らし出してくれている。

阿弥陀の本願はそういう私を目当てとしている。「そのままでいいか、本当にいいか、空しくはないか」と常に呼び掛けてくださる。ただ本当にかすかな声だから、欲にまみれた人間はふだん気がつくこともない。感謝、報謝と、一見キレイな言葉を口にするが、そこに「私の」と入る以上、どれも真実になりきらないのが人間の実相だ

親鸞聖人はそんな私たちのためにお念仏を残してくださった。”死ぬばかり”ではない人間の歩みは、一見頼りなさそうな念仏より始まる。 (2013年11月)

じごくはない しかし つくりだしている じょうどはある しかし みうしなっている

地獄はない しかし作りだしている 浄土はある しかし見失っている 2013年10月

先日教えて貰った言葉だが、あまりに自分自身を言い当てられているので、しばらくうなずくばかりであった。

地獄とはよく「苦しみにいとまの無い世界」だと言うが、決して死んでからゆくところではないと思う。

ものは試しに、鏡をのぞき込んでいただきたい。思いどおりにならない日常に、苦しみ・悩み・怒り・愚痴をもらす鬼の形相が…誰かのことではない。私たちのことだ。中には鏡が曇りすぎて見えない人もいるかもしれないが。「火の車 造る大工はなけれども 己が造りて己が乗り行く」とはよく言ったものだ。

一方で、薄っぺらな「泣ける言葉」や「癒やしの言葉」、そんなひとときの快楽にごまかされ、日々苦しみ迷い続けていとまがない私たち。それこそ「地獄」ではないか。

ただ、そんな日常を「それでいいのか」と問いかけてくれる声がある。それを先人は「よびかけ」、「信号」と呼んだ。または「ご催促」、「うながし」ともいわれた。清沢満之は「人心の至奥より出づる至盛の要求」とも表された。それはそれはかすかな声である。ただ確かにその先に浄土はある。見失っているのは人間なのだ。 (2013年10月)

※初出時は「地獄はない しかしつくっている」としておりましたが、訂正しました。

ねんぶつの ほかに すくいをもとめる から おちつけぬのだ

念仏のほかに 救いを求めるから おちつけぬのだ 2013年9月

「わたしは無宗教だ」とうそぶく人間が増えている。はたして宗教という言葉を本当にわかっているのか疑問である。

宗とは訓読みで「むね」と読むが、同じ発音の漢字は意外と少ない。宗・胸・棟・旨…いずれも大切なものを指す。つまり宗教とは人生にとって大切なものを問う教えである。

私たちは近代文明を築くにあたり、頭で考えることに価値基準を置き、目に見えるもの、理解できるものだけを頼りとする傾向が強い。だから大切なものと問われれば、金・名誉・家族・健康と、身につくもの、理解できるものしか思い浮かばないことがしばしばである。

しかしどうだろう。私たちの人生は常に目に見えない偶然や、理解しようにもできない必然に満ちているではないか。無宗教は悲しい宣言である。自らの生における「むね」、すなわち大切なものを持たずに生きると言い切るのだから。本来、無宗教とは、宗教に代わるそれなりの人生哲学を持つ姿勢を要求されるものである。そうではなく、単純に口先だけで無宗教と言っているなら、それは自分だけでなく他者に対しても底抜けに無自覚・無責任であるといえよう。

ある老婆に対し、その息子が「念仏しても食えんじゃないか」といったそうだ。老婆は一晩悩んでこう答えたという「念仏しても食えんかもしれんが、念仏せんと食ったもんが無駄になるぞ」と。唯物的・即物的に生きている者に、この老婆の一言の重さ、深さはわからない。 (2013年9月)

がきどもが がきに ほどこす うらぼんえ 〜 あけがらす はや 〜

餓鬼どもが 餓鬼に施す 盂蘭盆会〜暁烏 敏〜 2013年8月

関西では8月にお盆を迎える。終戦記念日も相俟って新聞でも特集することが多い。では「お盆」とは何か。正しくは盂蘭盆といい、語源は梵語ウランバナ、あるいは古代イラン語のウルヴァンという。なお、前者はさかさづりの苦しみを表す倒懸、後者は霊魂の意味をもつ。

だがむしろ一般的な日本の「お盆」は盂蘭盆経というお経(ただし偽経とされる)からの意味合いが強い。そこでは釈尊の弟子、目連尊者の母が餓鬼道に落ちて苦しむ姿が描かれる。それを救わんと尊者が施しをしたことにちなんで、「施餓鬼」が行われるようになったという。

真宗では施餓鬼を行わない。なぜなら死者を「迷い苦しむもの」と前提して見ないからだ。果たして死者は迷い苦しむものなのか。この問いは大切である。むしろ肉体としがらみを離れ、我々に先立って浄土に還帰された大先輩ではないのか。当然、人間の暦に合わせ都合良く行ったり帰ったりするものでもない。

南無阿弥陀仏に生きた方の往生と成仏は阿弥陀仏のみ手の中にあり、常に我々を見そなわしている。逆にいま、娑婆を生きる我々こそ、まさに倒懸(逆さづり)されるような毎日を生き、生命のより立つところを知らない。「亡きひとを案ずる私が亡き人から案ぜられている」。案ぜられ、施されているのは、つまり私たちの側なのだ。 (2013年8月)

おきょうは じんせいの ちかすい である

お経は人生の地下水である 2013年7月

「経教はこれを譬うるに鏡の如し」とは善導大師の言葉である。人の生きざまを鏡のように映し出してくれるのがお経の一言一句。

しかし私たちはその鏡を「よく映るか」「大きいか小さいか」と査定したり、「ここは映さないで」と自分の都合を混入する。釈尊の直説という重みよりも、数千年かけて先達がお伝えくださった歴史の重みよりも、目前のたった数十年の経験ごときが信用に足るとは、なんとも浅ましいものだ。

善導大師はこうも仰る。『言経者経也。 経能持緯 得成匹丈 有其丈用。(観経疏)』【お経は人生の縦糸である。縦糸は横糸(緯)と互いにたもちあうことで一枚の布となるが、それはまさに人間一人が着る服に足る如く(匹丈)その人を荘厳する(取意)】と。横糸とはさしずめ人生経験か。お経は地下水のように人生の奥底を流れつつ、時に地表に表れては私たちの人生とその方向を顕かにする。

決して死者への手向けでもなく、悪霊を鎮める呪文でもない。現代を生きる者に向け、時空を越えて、釈尊は今まさに、教えを説かれている。 (2013年7月)

みみにもちゃんと すききらいが あって いつも ほめことば ばかりを ききたがる 「へんなわたし」 〜ひらの おさむ〜

耳にもちゃんと好き嫌いがあって いつもほめことばばかりを聞きたがる「変なわたし」〜平野修〜 2013年6月

古来「聴聞(ちょうもん)」というように、仏法をきくには2つのきき方があるという。『聴』は旧字を「聽」と書き、偏は耳の字を王の字の上に載せている。これは「聖」の字と同じく、大切に、ということ。更に旁は直心を現す。一言も聞き漏らすまいと懸命に聴く姿である。

一方、『聞』は「耳受聲也(大字典)」とあり、これは耳が受けるまま、肩の力を抜いて聞く姿である。

普通、模範的な聞き方はどちらかと問えば、ほとんどの人が「聴」を挙げるだろう。懸命に己が力を尽くし、聴き、学ぼうとする姿勢は確かに素晴らしい。かたや肩の力を抜いて聞くなどとは、あまり推奨されないようである。

実は両方が大切なのだ。「聴」く姿は一見よく見えるが、煩悩具足の人間はそのうち飽きる。または聴く意味を求めたり、聴いても身につかぬ自分に嫌気がさす。肩肘をはらずに「聞」けば、そういうことは起こりにくい。だがご用心。脱力しすぎて意識を失い、結局何も聞いていないということもある。力を入れすぎず、抜きすぎず。いずれもが等しく正しい。

さてその上で、今は力を入れずに「聞く」ことを奨めたい。なぜなら意識すればするほど、人間は耳あたりのよい、わかりやすい言葉だけを「選んで」聴くからだ。「自分がすぐにうなずけるものだけが、教えであるわけではありません。」と教えてくださった先生がいる。うなずけるものばかりを選んでききたがる自力まみれの私が居る。そこがきこえるか。 (2013年6月)

あなたで なければ できないしごとが あるのです

あなたでなければ できない仕事があるのです 2013年5月

「役に立つ」「役に立たない」で物事を無意識に分別している時がある。時には人間存在ですら。その意識の底には「私にとって」とか、「私の今の価値観において」という条件がつきまとっているはず。にも関わらず、さもその狭量な判断が絶対であるかのように錯覚している。恐ろしいことである。

『あれは嫌い これはダメ あいつは困ると、切り続ける。私はどうもハサミのようだ。』とは故・平野修師の言葉であるが、忘れる事勿れ。自ら他者を切り捨てた者はいつかどこかで切り捨てられるだろう。なぜなら、そういう価値観からなる世界を自ら作り上げ、はまり込んでいるからである。知らぬ誰かが作ったわけではない。自業自得の自業とは自分の業によって自分を限定してゆく視野の狭さである。

えらばず・きらわず・みすてずという仏の視野は違う。この世におけるどのような存在にも、「役に立つ・立たぬ」というレッテルを貼ることはない。

思えば植物も動物も、いのちの厳しい現実を生きてはいても、人間のように狭量なレッテル貼りはしない。互いにそのいのちを精一杯生きている。

誰かと比較し優劣を決める必要のない世界(浄土)はある。人間のみがその世界に立てないとすれば悲しいことだ。仏の眼に照らされて、あるがままの身が立つべき土の存在に気づきたい。 (2013年5月)

みずをのんで たのしむ もの あり にしきをきて うれうるもの あり

水を飲んで楽しむ者あり 錦を着て憂うる者あり 2013年4月

大慈大悲という言葉がある。果てしなく広く深い仏の大慈悲を表す言葉だが、かたや人間は小慈小悲。自分のことで一生懸命、隣人とすら仲違いをする人間は所詮その程度なのだ。親鸞聖人は加えて「小慈小悲もなき身」と厳しく押さえられる。

さて、「身の丈世代」という言葉がある。自分の身の丈を生きようと志す若者を指すらしい。たとえ商売で成功しても、それを拡大や競争の具にするわけではない。たとえ数が少なくとも顧客に対して精一杯の丁寧な仕事を心がけ、多くを望まない。まことに殊勝な生き方かと思う。

「ほんの少し努力しさえすれば欲しいモノはほとんど手に入り、そのモノに押し潰されそうになりながら、早く早くとせきたてられ、ゆとりを失う。不満や苛立ちが個人・社会を問わずこの国に充満している」とはかつて菅原哲男氏の視座(1995年)であるが、まさしく近現代とは「水を飲んで楽しまず、錦を着て憂えてきた」私たちの、小慈小悲ももたぬ、身の丈を越えた自己中心的な視点の結果かと感じる。

本当は自らの人生の足もとにこそ、共に楽しめる世界があるのだと「最近の若者」から教えられているようだ。

高度成長・バブルの狂騒は終わった。今またアベノミクスなどと浮かれているようだが、さて皆さんは如何。 (2013年4月)

ぎゃっきょうを いきぬくひとは とうとい だが じゅんきょうに よわないひとも また ありがたい

逆境を生きぬく人は尊い だが 順境に酔わない人もまた有難い 2013年3月

「あの日」がまた巡ってきた。3・11と記号の如く呼ばれるあの日が。各地で追弔の法要や行事が執り行われたが、被災地の知人から届く声は、依然険しい復興への道程。さて、報道はそんな被災地のありさまを果たして正確に伝えているのだろうかとすら思う。

そんな中、逆境に生きる被災地からは「忘れないで欲しい」とメッセージが届く。人間とは「忘れる」生き物である。無論それも必要な能力である。時に忘れる事で人は苦しみや悲しみから逃れられ、あるいは喜びを繰り返すことが出来る。だが今私たちには、その人間の本能に反することを願われている。

それは「忘れられていない」ことこそが人間にとってこの上なく強い支えとなるからだ。人は孤独では生きられない。絆の字義には束縛の意もあるというが、たとえ自らを縛りつける繋がりであったとしても、絆を感じていたいものなのだ。

またこれは同時に、他者のどんな悲しみや苦しみにも目を閉じることが出来てしまう人間への警鐘でもある。

今が幸せかどうかとは、あとでそれと気づくもの。結局私たちが埋没しがちな忘却の日常からは、今が順境であることに気づくことが「有ること難し」なのだと知らされる。今に酔いしれず、今ある有り難さを忘れずにありたいものだ。 (2013年3月)

ゆるす ゆるさぬは そとへのしてん してんをうちにてんずれば わたしも ゆるされている

許す許さぬは 外への視点 視点を内に転ずれば 私も許されている 2013年2月

妙好人と呼ばれた因幡の源左は、かつて宗教家・西田天香氏を招いて開かれた地元の講演会に間に合わず、話を聞きそびれた。宿でせめて肩でも揉ませてほしいと頼み込み、気の毒に思った天香氏も快諾したという。

氏は親しく源左を招き入れ、その日の講演の内容を語って聞かせた。「お爺さん、年が寄ると気が短くなって腹が立ちやすくなる。しかし何でも堪忍してこらえて暮らしなされや」ところが源左はそれを聞いて「おらはまだ、人さんに堪忍してあげたことはござんせんや、人さんに堪忍してもらってばかりでおりますだいな」と言い、天香氏をいたく感動させた。

自己中心的な価値観に生きている現代人にはわかりにくい話かもしれない。そもそも許すとか許さないとかの基点がどこにあるかを考えてみたい。とかく「常識では」「世の中では」「一般的には」と、もっともらしい理由を付け、その実は自分の思いを外向けに、正当化しているだけの私たちの姿が見えてはこないか。

他人を訴え裁くことしか知らぬ私達は、逆の視点を仏法から学ばねばならない。「許す」どころか「許されどおし」の私が見える。申し訳ない、すまぬと。天香氏は源左の言葉に強く共感した。思想や信条を越えた真実の地平がここにある。(2013年2月)


※西田天香…長浜出身で京都在住の宗教家で社会事業家。宗教団体『一燈園』創始者。

ゆこう ゆこう ひたすらに ゆこう

往こう 往こう ひたすらに 往こう 〜高光大船〜 2013年1月

つくづく大晦日と新年とは不思議なものだ。たった一晩過ごしただけで、全てのものが新しく見える。新年を迎えた今、これからの一年を思い、気持ち新たに過ごしている。すべてのものに「初」が付き、なにやら自分がリセットされたようだ。

ただ、誰もが知っていることだが、別に私の何かが新しくなったわけではない。むしろ昨年までの私を垢まみれに引きずって今の私がある。たった一晩で私をリセットしようなんて虫のいい話はない。

面白いのは私たちが「その気」になれば、なんの変哲も無いと思われる日を全て「初事」として捉えることができるということ。逆に言えば、無駄な一日など365日どこにもないということだ。

「往生」という言葉があるが、これは死ぬことではない。文字どおり生きて往くということ。つまり日々の歩みであり、姿勢であり、生きていることへの問いである。高光大船師はその著書の中において、宗祖が語りかけるような表現をとられ「往こう往こう」と誘って下さる。それは確かに高光師が聞き取った宗祖の言葉なのだろう。日々これ新たなり。毎日こそが初事なのだ。ひたすらに往こう。 (2013年1月)