不定期に更新しております、真廣寺山門にある掲示板。その味わいを毎回記しておりますが、ここにそのバックナンバーを置きます。
今月の言葉は、日本人の「かなしみ」の構造を深く見つめられた竹内整一氏の一文です。(『花びらは散る 花は散らない』角川選書)
近年「脱○○」や「○○2.0」といった、新しいものを求め古いものを切り離す発想が流行しました。しかし竹内氏は、新しさとは「これまで」を置き去りにすることで生まれるのではないと語ります。これまでの歩みを忘れると、人は前へ進めない、と。
竹内氏は同書で、将棋の羽生善治さんのインタビューを紹介します。
対局で長考するとき、羽生さんは相手の出方や自分の切り口など、未来の可能性だけを思い浮かべているのではなく、初手からいまの局面に至る〝過程〟を、むしろもう一度おさらいしていることが多いのだと語ります。どう進んできたかを確かめれば、おのずと次の一手が浮かぶからです。
この視点は、仏教の時間観である「去・来・現」にも通じます。過去と未来を〝現在〟が支えていると説き、未来を願うばかりでなく、過去に目を向けることも同じくらい大切で、そこから何よりも「今を生きる」ことが重要である、という教えです。
「新しいものを生み出す」と聞くと、古いものを捨てなければ、と思いがちです。しかし実際には、悔いや失敗のような思いも、静かに沈んでいく〝重荷〟ではなく、未来へ向かうための素材そのものなのだと、今月の言葉は教えてくれます。
作家ポール・ヴァレリーは「われわれは、後ずさりしながら未来へ入っていく」(『精神の政策』)と述べました。
さらに「湖に浮かべたボートを漕ぐように、人は後ろ向きに未来へ入っていく」(出典不明)とも。彼は未来予測には否定的でした。しかし、この言葉からは前方(未来)は見えなくとも、後方(過去)を見つめることで、進むべき方向(未来の方向性)が自然に定まっていくとも読めます。
年の瀬を迎えるこの時期、私たちは「今年できなかったこと」や「あの時こうすれば」という思いを抱きがちです。しかし、そうした思いも含めた〝これまで〟を丁寧に抱きしめることが、次の一歩をつくる力になるのでしょう。
闇雲に未来を追いかけるのではなく、過去を確かめながら歩む道。
その歩みにこそ、私たちの確かな明日があるのだと思います。
※2025年・大和大谷別院の12月号にもこの編集版が収録されています。
今月の言葉は、中国・唐の時代の禅僧、永嘉玄覚(ようかげんかく)大師の言葉です。
「二乗は精進して道心なく 外道は聡明にして智慧なし」ーー少しむずかしそうに聞こえますが、実は私たちの日常にも通じる教えです。
まず、「二乗」とは声聞と縁覚という姿を表します。
声聞は仏の教えを聞いて自ら悟りを得ようとする人、縁覚は自分の理解の範囲で悟りを求める人です。まじめで誠実なのですが、「自分が悟る」ことに一生懸命で、他の人のことは見えなくなりがち。だから玄覚大師は、「二乗は努力熱心だけれど、人を救おうとする心(道心)がない」と言うのです。
一方、「外道」とはヤクザ映画のセリフじゃなく、仏教用語。仏教の外にいる人のことです。宗教にあまり関心がなく、世間の勉強や仕事に励む人です。そうした人は頭もよく、知識も豊かで聡明に見えます。けれども、知識を増やすばかりで「手放す」ことを知らない。そこには仏のちえ「智慧(prajñā)」がない、つまり〝軽やかさ〟がないと大師はいいます。
インドの言葉で「知恵(jñāna)」とは巻き取るちえ、知識や経験をどんどん集めていく力です。漢字の知にも、恵(惠)にもそういう意味が宛てられています。現代人はどちらかというとこちらが得意ですね。
それに対して「智慧(prajñā)」とは、巻き取ったものをほどき、手放すちえ、という味わいです。智は知る力、慧は2本の箒を表します。積もり積もったものをゆるめて、見抜く力とも解釈されます。
知ることよりも、ゆるめるーーその中に本当の安らぎがあるのかもしれません。
現代は宗教離れの時代です。仏の教えを聞かなくても、まぁ生きていけます。でも、どこかで「行き詰まり」を感じるときが来ます。そのとき、「自分で何とかしなきゃ」と力むと、かえって抜け出せなくなります。
そんなとき、仏の智慧にふれることーー「手放すことで楽になる生き方」を思い出したいものです。
努力することも、学ぶことも大切です。でも、力を抜いて「ただ聞く」ことから始まる道もあります。
玄覚大師の言葉は、そんな〝やさしい智慧〟への入口をそっと示しているのだと思います。
※2025年・大和大谷別院の11月号にもこの編集版が収録されています。
「敷居を跨げば七人の敵あり」と言うことわざがあるように、世の中にはどうしても自分と意見の合わない人がいます。そして、その人に悪気はなくとも、私の目には悪人に映り、やっつけたくなることもあります。
しかしお釈迦さまは「悪人は、尊敬を受けると滅びてしまう」と説かれます。尊敬を向けられることで、相手は悪人でいられなくなる、というのです。受け入れ難い言葉ですが、ここには深い示唆を含んでいます。
このことを考えるとき、哲学者・故・池田晶子の著書『十四歳の君へ』を思い出します。
そこには「戦争」という章があり、彼女は多くの人が「戦争は悪で平和は正義」と信じているが、果たしてそう言い切れるのか? と問いかけます。これもまたドキッとさせられる問いかけですが、ここに彼女の哲学の深みがあります。
彼女は考察の中で、戦争はなぜ起きるか、と考えます。そして、戦争とは「集団」が引き起こすものだと結論づけます。確かに、個人どうしなら、ただのケンカですからね。
ここからがすごいのですが、彼女は「集団」とは人間の頭の中で勝手につくられたもの、と見抜きます。確かに、国境線にせよ、地域の境界線にせよ、元々存在しない・見えない線を人間が勝手に線引きして、向こう・こっちと分けているだけです。
「その『集団の正義』と『集団の正義』がぶつかり合う時、戦争は生まれる」と彼女は指摘するのです。つまり、戦争の始まりには悪意が存在せず、むしろ「我々こそが正しい」と正義と正義が衝突した果てに、悪である戦争が現れるのだ、と。
顧みれば、私が誰かを悪人と見てしまう時も同じです。私の心の中にある「正義という物差し」が、一方的に意見の合わない相手を悪人に仕立て上げているのでしょう。おそらく相手もまた、相手の正義から私を悪人として見ているのでしょう。そう思えば、相手は悪人ではなくて、「自分とは異なる正義を生きる人」。ならば、そこに尊敬を寄せることもできるはずです。
悪口よりも、少しの尊敬を。お釈迦さまの言葉は、時代と国境を越えて争いを超える道を私たちに開いているのだと思います。
※2025年・大和大谷別院の10月号にもこの編集版が収録されています。
今月のことばは、親鸞聖人のお言葉です。親鸞聖人は「自然」と書いて「じねん」とお読みになられました。
「自然」と聞きますと、環境保護や自然の驚異といった具合で、どうしても〝人間 vs 大自然〟という印象を受けがちです。しかし私たち人間も、自然の一部にすぎません。「自然を守る」と言いますが、実は自然に包まれ、自然と共に生きているのです。それなのに、つい人類は自然を征服し、自分で何でもできると思い込んでしまうのかもしれません。
そう考えると、現代の私たちの生き方や考え方は、むしろ〝不自然〟になっているのかもしれません。
聖人のおっしゃる「自然」は、はるかに大きな広がりをもっています。――「この世で起こる出来事は、あらゆるものが関わりあって生じている。誰かがこっそり企んだわけではない。たかが人間の企みで、世の中を左右できるものではない。世の中はもっと大きなはたらきの中で動いており、私たちもその一部なのだ」―― そんなイメージです。
ところが私たちは、事件や問題が起こると、他人や政治、地域など「誰かのせい」にしがちです。時には、人の浅はかな企てが見えることもありますが、世界全体を思うままに動かせるような力を持つ存在はありません。たとえ〝国家〟といえども一枚岩ではなく、多様な考えをもつ人々の集まりにすぎないのですから。
聖人は、「料(りょう)」という言葉を示されます。「料」とは「手がかり」という意味です。つまり、世の中で起こるさまざまな出来事は、私たちが考えるための「手がかり」なのだ、と。そして阿弥陀さまはその「自然」のありさまを知らせようとしてくださっているのだとも。
たとえ自分にとって納得のいかない出来事があったり、社会が望まぬ方向へ進んでいると感じたりしても、「私もその一員として関わっている」という事実を忘れてはなりません。
毎日そうして、悲しい〝業〟を積み重ねる私たち人間を、阿弥陀さまは静かに見つめてくださっています。
ただそのまなざしには、悲しみを生きる私たち一人ひとりが、必ず抱きとめられているのだとも思います。
※2025年・大和大谷別院の9月号にもこの編集版が収録されています。
昔、「浄土真宗とはひっくり返る教えです」と教えてくださった先生がいました。
宗教といえば、神仏に祈願したり、まじないのような行為を思い浮かべる人が多いですが、お釈迦さまの教えは、そうした不思議な力に願いを託すものではありません。祈りや学びを通し、自身のあり方を根底から問い直す――そんな教えなのです。
「ひっくり返る」とは、それまで当たり前だと思っていた自分の考え方や価値観に対し、「本当にそれでいいのか?」と新たな光を差し向けてくれることを意味します。つまり、気づきのヒントをいただくということですね。
そう考えると、今月の掲示板の言葉もまた、私たちの常識を揺さぶってくる言葉です。「教える人」と聞けば、先生や師匠など、知識や技術を伝える立場の人が思い浮かびます。ふつうは、そのような人こそが偉い、尊敬すべき存在だと考えるでしょう。実際、世の中の教育の場では、教える人が中心であることに間違いはありません。
しかし、仏教では「教える人」だけではなく、「教えられる人」が大切にされます。
お釈迦さまは、目の前の人に寄り添い、その人の状況や心のありように応じて、言葉を尽くして説法されました。これを「対機説法」といいます。聞く人の心と経験に教えが響き、そこで初めて意味を持つ。まさに仏教は、受け取る側の〝自覚〟によって生きた教えとなるのです。
だからこそ浄土真宗では、「念仏」と「聞法生活」のセットを大切にしてきました。念仏が教えの核心であると同時に、それを聞き続ける生活――つまり、教えにふれ、受けとめ直し続ける営みこそが、私たちの生き方を照らし出してくれるのです。あなたの存在こそが、教えを生きたものにします。ひとの苦しみに寄り添う教えが必ずここにあるのです。
全文をここにご紹介します。
「教える人よりも教えられる人が大切である。教えの大きいことや深いことは、教えられた人の自覚によって明らかにされるものである。それが仏道というものである。そうでないといたずらに子分となって、結局じり貧に陥ってしまう」(安田理深・真仏土巻聴記より)
※2025年・大和大谷別院の8月号にもこの編集版が収録されています。
毎日暑いですね。まだ7月だというのに、まるで残暑のようなうだる暑さと湿気にうんざりします。どうぞ体調には十分お気をつけください。
今月の言葉は、聖徳太子の「十七条憲法」からいただきました。聖徳太子は日本に仏教を伝え、親鸞聖人も「和国の教主」と呼んで深く尊敬されました。
「三宝」とは「仏・法・僧」の三つの宝を意味します。「仏」はお釈迦さま、「法」はお釈迦さまの説く阿弥陀様の願いを伝える教え、「僧」はその教えを共に聞き合う仲間です。聖徳太子は「お釈迦さまに従って阿弥陀様の願いをきかなければ、またその仲間がいなければ、自分の迷いにすら気づけませんよ」と仰るのです
ところで「循環彷徨(または環形彷徨)」という現象をご存知でしょうか。これは、砂漠や森林のように目印のない場所に置かれると、人はまっすぐ歩いているつもりで、少しずつ曲がり、やがて円を描いて元に戻ってしまうという現象です。
その昔、この原因は利き腕や足の長さの違いと考えられていましたが、2009年、ドイツの研究チームによる実験でこの説は否定されました。
ドイツのマックス・プランク研究所のチームは、GPSを用いて砂漠や森林で被験者の歩行経路を追跡しました。その結果、太陽や月、遠くの山など外の目印があると人はほぼまっすぐ進めますが、曇り空や森の中で目印を失うと、わずかな感覚の誤差が蓄積し、無意識のうちに曲がり始めます。また、その方向に利き腕や足の長さの一貫性はなく、同じ人でも右回りや左回りになることが分かりました。
人間は、バランス感覚や筋肉、関節の感覚を統合して脳で分析し、方向を決めていますが、そもそも絶対的な基準を失うと小さなノイズが積み重なり、本人が「まっすぐだ」と信じていても、進路が実際には大きくズレてしまう生き物である、ということです。
私たちの日常も同じではないでしょうか。些細な思い込みや情報がノイズとなって勘違いをし、正しいつもりで迷ってしまいます。そんな時こそ「阿弥陀様の前で手を合わせてごらん」と、まるで1400年の時を超えて、聖徳太子が今も私たちに呼びかけてくださっているようにも感じられます。
※2025年・大和大谷別院の7月号にもこの編集版が収録されています。
こんにちは。住職です。今回は、浄土真宗(真宗)の大先輩・安田理深先生の言葉を紹介します。
誰だって人生で「どちらを選ぶべきか」と迷う場面があります。そんなとき、「両方選べたらいいのに」と思うでしょうが、人生における選択は一本だけ。同時に二つを選ぶことはできません。
さて、仏教では、あれこれと迷いながら進む〝みち〟を「路」、ただ一つを選び抜く〝みち〟を「道」と書きます。
この違いを、親鸞聖人が「正信偈」に示されています。龍樹菩薩と呼ばれる方を讃えるくだりです。
顕示難行陸路苦
信楽易行水道楽
「顕示」とは、「明らかに示す」という意味です。龍樹菩薩の表現では、「陸の路とは目的地までにいろいろあって、選ぶのも大変だし、歩くのもまた大変で迷いやすいものだ。しかし、水の道(この場合、水路ですね)は船に乗ることができ、楽に進むことができる」と示されました。
注目いただきたいのは、陸の路を「路」、水の道を「道」と表現されている点です。
私たちの人生と同じではないですか。「あれもこれも」と手を広げすぎると、かえって迷「路」に迷い込むことになります。
一方、「これひとつ」と決めた道を進むなら、大変でも迷うことなく、歩んでゆけます。もちろん、若いうちはあれこれと道を選ぶこと、さまざまな経験をすることも大切です。それでも最後は自分の信じる一本道に帰ってくることが大事です。
親鸞聖人は、信心に生きるお念仏の道を「念仏の一道」とされました。修行や決めごと、行事に追われなくても、お念仏で、いつでも、どこでも、誰でも、阿弥陀さまとつながれる、それこそ浄土真宗が選びとった仏法修行の道です。シンプルでわかりやすいのですが、複雑な人間は、どうしてもそこに安住できません。だからそこに「聞法生活」があります。
蒸し暑い日が続きますね。心も生活も、そして思考もシンプルに整え、落ち着いた日々を過ごしていきたいものです。
こんにちは。住職です。
これは作家の故・高史明さんの本にあったお話です。
ある日、中学生が「死にたい」と訪ねてきました。皆さんなら、どう答えるでしょう。「そんなことを言うな」「親が悲しむぞ」とあれこれ諭すかもしれませんね。ところが高さんは、「死にたいと言っているのはどこか?」と問い返したのです。
子どもがとまどうと、高さんは自分の頭を指して言いました。「死にたいと言っているのはここか?」と。
子どもは「当たり前じゃないか」という顔をしています。
そこで高さんは続けました。「ここが死にたいと言って死んだらここから上だけが死ぬか?手や足もみな死ぬんだ。手の了解を求めたか。手はあなたにご飯を食べさせてくれたではないか。足の裏にも了解を求めたか。人間は頭でっかちだから、自分の顔は鏡にてらして一日何回も見るけれど、足の裏はまめができたとか、水虫でもできなかったらつくづく見ることもあるまい。死ぬという一大事だからせめていっぺんぐらい見たらどうか。足の裏はあなたに感謝されないまんま、ずーっとあなたの重さを一番下で支えて歩いてくれてきたではないか。」
「手や足はことばの知恵では返事をしない。しかしながら、足の裏に知恵がないか。足の裏には足の裏の知恵がある。しかも足の裏は大地に一番近いところにある。足の裏の返事が聞こえなかったら聞こえるまで歩きなさい。それが人生というものだ」と。
この話は、「人間は単純に頭だけで生きているのではない」ということを教えてくれます。
人間は頭で自分のことばかり考え、他者を責め、自己の利益を優先しがちです。でも、私たちのいのちは、無数のつながりに支えられています。一皿の食事でも、犠牲となったいのちや、多くの人の手があってこそ食べられます。それを忘れ、思考にとらわれる今の世界はいかがなものでしょう。はやりの「自国第一主義」も無明と愚かさの代表格です。
夜、耳を塞ぐと血流の音が聞こえます。目を閉じれば、瞼に模様が映ります。眠って意識を失っても、朝には目覚め、生が続く。これは当たり前のことなのでしょうか?
今こそ、私たちを支える「深くて広い世界」に目を向けたいものです。
※大阪の『南御堂』掲示板で住職が書いたものの原文をここに掲載します。(なお、同様の文章が大阪拘置所・「みやこじま」誌にも掲載されました)
こんにちは。住職です。
「AI革命」と言われる現代、変化の速さに不安を感じ、「何か新しいことを学ばなければ」とあせる方もいるかもしれません。
今回は、故・外山滋比古さんの言葉をご紹介します。外山氏は〝知のバイブル〟と呼ばれた『思考の整理学』の著者として知られ、この言葉の前後に「見つめるナベは煮えない」とも述べておられます。これは鍋の中身を気にしすぎ、頻繁に蓋を開けたり、かき混ぜたりしていては、いつまで経っても煮えないように、「一つのことに執着しすぎると、かえって物事がうまく進まなくなる」という意味が込められています。。
AIに対し、人間ならではの強みは「発想力」です。実はAIは大量のデータを処理することは得意でも、全く異なる二つの物事をくっつけ、新しいアイデアを生み出すことは苦手だと言われています。
外山氏は、生前、AI時代を予言した人としても知られております。氏は、人間の発想力を高めるためには、「考えを寝かせる」、つまり「ときには忘れる」ことが大切と説きます。そのために昼寝をせよ、ともいいます。それも勉強のうちだと。ここが掲示板の言葉につながります。
悩みや不安にとらわれ、堂々巡りの思考から抜け出せなくなった時、無理に逃れたり、忘れようとせずとも、一度立ち止まり、思考を横に置いてみることが大切です。そうすることで物事を客観的に見つめ直せたり、新たな視点を得られますから。
この考え方は、信仰などにおいても同じです。一心に祈ったり、瞑想に励んだとしても、当てが外れてしまったり、心が乱れてしまうことがあるかもしれません。
お念仏は願い事をする行為ではありません。ことさらに無心をめざす必要もありません。ただ口に「南無阿弥陀仏」と称えます。それだけかと思うでしょうが、そこには、アミダさまと自然に向き合うための「ちからの抜けた姿」があります。この姿勢が、私たちに穏やかな心を与え、忙しい毎日を受け入れる力を与えてくれるのです。
早いもので、もう4月ですね。どうぞ、穏やかな日々をお過ごしください。