不定期に更新しております、真廣寺山門にある掲示板。その味わいを毎回記しておりますが、ここにそのバックナンバーを置きます。
毎日暑いですね。まだ7月だというのに、まるで残暑のようなうだる暑さと湿気にうんざりします。どうぞ体調には十分お気をつけください。
今月の言葉は、聖徳太子の「十七条憲法」からいただきました。聖徳太子は日本に仏教を伝え、親鸞聖人も「和国の教主」と呼んで深く尊敬されました。
「三宝」とは「仏・法・僧」の三つの宝を意味します。「仏」はお釈迦さま、「法」はお釈迦さまの説く阿弥陀様の願いを伝える教え、「僧」はその教えを共に聞き合う仲間です。聖徳太子は「お釈迦さまに従って阿弥陀様の願いをきかなければ、またその仲間がいなければ、自分の迷いにすら気づけませんよ」と仰るのです
ところで「循環彷徨(または環形彷徨)」という現象をご存知でしょうか。これは、砂漠や森林のように目印のない場所に置かれると、人はまっすぐ歩いているつもりで、少しずつ曲がり、やがて円を描いて元に戻ってしまうという現象です。
その昔、この原因は利き腕や足の長さの違いと考えられていましたが、2009年、ドイツの研究チームによる実験でこの説は否定されました。
ドイツのマックス・プランク研究所のチームは、GPSを用いて砂漠や森林で被験者の歩行経路を追跡しました。その結果、太陽や月、遠くの山など外の目印があると人はほぼまっすぐ進めますが、曇り空や森の中で目印を失うと、わずかな感覚の誤差が蓄積し、無意識のうちに曲がり始めます。また、その方向に利き腕や足の長さの一貫性はなく、同じ人でも右回りや左回りになることが分かりました。
人間は、バランス感覚や筋肉、関節の感覚を統合して脳で分析し、方向を決めていますが、絶対的な基準を失うと小さなノイズが積み重なり、本人が「まっすぐだ」と信じていても、進路が実際には大きくズレてしまう生き物である、というのです。
私たちの日常も同じではないでしょうか。些細な思い込みや情報がノイズとなって勘違いをし、正しいつもりで迷ってしまいます。そんな時こそ「阿弥陀様の前で手を合わせてごらん」と、まるで1400年の時を超えて、聖徳太子が今も私たちに呼びかけてくださっているようにも感じられます。
※2025年・大和大谷別院の7月号にもこの編集版が収録されています。
こんにちは。住職です。今回は、浄土真宗(真宗)の大先輩・安田理深先生の言葉を紹介します。
誰だって人生で「どちらを選ぶべきか」と迷う場面があります。そんなとき、「両方選べたらいいのに」と思うでしょうが、人生における選択は一本だけ。同時に二つを選ぶことはできません。
さて、仏教では、あれこれと迷いながら進む〝みち〟を「路」、ただ一つを選び抜く〝みち〟を「道」と書きます。
この違いを、親鸞聖人が「正信偈」に示されています。龍樹菩薩と呼ばれる方を讃えるくだりです。
顕示難行陸路苦
信楽易行水道楽
「顕示」とは、「明らかに示す」という意味です。龍樹菩薩の表現では、「陸の路とは目的地までにいろいろあって、選ぶのも大変だし、歩くのもまた大変で迷いやすいものだ。しかし、水の道(この場合、水路ですね)は船に乗ることができ、楽に進むことができる」と示されました。
注目いただきたいのは、陸の路を「路」、水の道を「道」と表現されている点です。
私たちの人生と同じではないですか。「あれもこれも」と手を広げすぎると、かえって迷「路」に迷い込むことになります。
一方、「これひとつ」と決めた道を進むなら、大変でも迷うことなく、歩んでゆけます。もちろん、若いうちはあれこれと道を選ぶこと、さまざまな経験をすることも大切です。それでも最後は自分の信じる一本道に帰ってくることが大事です。
親鸞聖人は、信心に生きるお念仏の道を「念仏の一道」とされました。修行や決めごと、行事に追われなくても、お念仏で、いつでも、どこでも、誰でも、阿弥陀さまとつながれる、それこそ浄土真宗が選びとった仏法修行の道です。シンプルでわかりやすいのですが、複雑な人間は、どうしてもそこに安住できません。だからそこに「聞法生活」があります。
蒸し暑い日が続きますね。心も生活も、そして思考もシンプルに整え、落ち着いた日々を過ごしていきたいものです。
こんにちは。住職です。
これは作家の故・高史明さんの本にあったお話です。
ある日、中学生が「死にたい」と訪ねてきました。皆さんなら、どう答えるでしょう。「そんなことを言うな」「親が悲しむぞ」とあれこれ諭すかもしれませんね。ところが高さんは、「死にたいと言っているのはどこか?」と問い返したのです。
子どもがとまどうと、高さんは自分の頭を指して言いました。「死にたいと言っているのはここか?」と。
子どもは「当たり前じゃないか」という顔をしています。
そこで高さんは続けました。「ここが死にたいと言って死んだらここから上だけが死ぬか?手や足もみな死ぬんだ。手の了解を求めたか。手はあなたにご飯を食べさせてくれたではないか。足の裏にも了解を求めたか。人間は頭でっかちだから、自分の顔は鏡にてらして一日何回も見るけれど、足の裏はまめができたとか、水虫でもできなかったらつくづく見ることもあるまい。死ぬという一大事だからせめていっぺんぐらい見たらどうか。足の裏はあなたに感謝されないまんま、ずーっとあなたの重さを一番下で支えて歩いてくれてきたではないか。」
「手や足はことばの知恵では返事をしない。しかしながら、足の裏に知恵がないか。足の裏には足の裏の知恵がある。しかも足の裏は大地に一番近いところにある。足の裏の返事が聞こえなかったら聞こえるまで歩きなさい。それが人生というものだ」と。
この話は、「人間は単純に頭だけで生きているのではない」ということを教えてくれます。
人間は頭で自分のことばかり考え、他者を責め、自己の利益を優先しがちです。でも、私たちのいのちは、無数のつながりに支えられています。一皿の食事でも、犠牲となったいのちや、多くの人の手があってこそ食べられます。それを忘れ、思考にとらわれる今の世界はいかがなものでしょう。はやりの「自国第一主義」も無明と愚かさの代表格です。
夜、耳を塞ぐと血流の音が聞こえます。目を閉じれば、瞼に模様が映ります。眠って意識を失っても、朝には目覚め、生が続く。これは当たり前のことなのでしょうか?
今こそ、私たちを支える「深くて広い世界」に目を向けたいものです。
※大阪の『南御堂』掲示板で住職が書いたものの原文をここに掲載します。(なお、同様の文章が大阪拘置所・「みやこじま」誌にも掲載されました)
こんにちは。住職です。
「AI革命」と言われる現代、変化の速さに不安を感じ、「何か新しいことを学ばなければ」とあせる方もいるかもしれません。
今回は、故・外山滋比古さんの言葉をご紹介します。外山氏は〝知のバイブル〟と呼ばれた『思考の整理学』の著者として知られ、この言葉の前後に「見つめるナベは煮えない」とも述べておられます。これは鍋の中身を気にしすぎ、頻繁に蓋を開けたり、かき混ぜたりしていては、いつまで経っても煮えないように、「一つのことに執着しすぎると、かえって物事がうまく進まなくなる」という意味が込められています。。
AIに対し、人間ならではの強みは「発想力」です。実はAIは大量のデータを処理することは得意でも、全く異なる二つの物事をくっつけ、新しいアイデアを生み出すことは苦手だと言われています。
外山氏は、生前、AI時代を予言した人としても知られております。氏は、人間の発想力を高めるためには、「考えを寝かせる」、つまり「ときには忘れる」ことが大切と説きます。そのために昼寝をせよ、ともいいます。それも勉強のうちだと。ここが掲示板の言葉につながります。
悩みや不安にとらわれ、堂々巡りの思考から抜け出せなくなった時、無理に逃れたり、忘れようとせずとも、一度立ち止まり、思考を横に置いてみることが大切です。そうすることで物事を客観的に見つめ直せたり、新たな視点を得られますから。
この考え方は、信仰などにおいても同じです。一心に祈ったり、瞑想に励んだとしても、当てが外れてしまったり、心が乱れてしまうことがあるかもしれません。
お念仏は願い事をする行為ではありません。ことさらに無心をめざす必要もありません。ただ口に「南無阿弥陀仏」と称えます。それだけかと思うでしょうが、そこには、アミダさまと自然に向き合うための「ちからの抜けた姿」があります。この姿勢が、私たちに穏やかな心を与え、忙しい毎日を受け入れる力を与えてくれるのです。
早いもので、もう4月ですね。どうぞ、穏やかな日々をお過ごしください。