不定期に更新しております、真廣寺山門にある掲示板。その味わいを毎回記しておりますが、ここにそのバックナンバーを置きます。
こんにちは。住職です。
これは作家の故・高史明さんの本にあったお話です。
ある日、中学生が「死にたい」と訪ねてきました。皆さんなら、どう答えるでしょう。「そんなことを言うな」「親が悲しむぞ」とあれこれ諭すかもしれませんね。ところが高さんは、「死にたいと言っているのはどこか?」と問い返したのです。
子どもがとまどうと、高さんは自分の頭を指して言いました。「死にたいと言っているのはここか?」と。
子どもは「当たり前じゃないか」という顔をしています。
そこで高さんは続けました。「ここが死にたいと言って死んだらここから上だけが死ぬか?手や足もみな死ぬんだ。手の了解を求めたか。手はあなたにご飯を食べさせてくれたではないか。足の裏にも了解を求めたか。人間は頭でっかちだから、自分の顔は鏡にてらして一日何回も見るけれど、足の裏はまめができたとか、水虫でもできなかったらつくづく見ることもあるまい。死ぬという一大事だからせめていっぺんぐらい見たらどうか。足の裏はあなたに感謝されないまんま、ずーっとあなたの重さを一番下で支えて歩いてくれてきたではないか。」
「手や足はことばの知恵では返事をしない。しかしながら、足の裏に知恵がないか。足の裏には足の裏の知恵がある。しかも足の裏は大地に一番近いところにある。足の裏の返事が聞こえなかったら聞こえるまで歩きなさい。それが人生というものだ」と。
この話は、「人間は単純に頭だけで生きているのではない」ということを教えてくれます。
人間は頭で自分のことばかり考え、他者を責め、自己の利益を優先しがちです。でも、私たちのいのちは、無数のつながりに支えられています。一皿の食事でも、犠牲となったいのちや、多くの人の手があってこそ食べられます。それを忘れ、思考にとらわれる今の世界はいかがなものでしょう。はやりの「自国第一主義」も無明と愚かさの代表格です。
夜、耳を塞ぐと血流の音が聞こえます。目を閉じれば、瞼に模様が映ります。眠って意識を失っても、朝には目覚め、生が続く。これは当たり前のことなのでしょうか?
今こそ、私たちを支える「深くて広い世界」に目を向けたいものです。
※大阪の『南御堂』掲示板で住職が書いたものの原文をここに掲載します。(なお、同様の文章が大阪拘置所・「みやこじま」誌にも掲載されました)
こんにちは。住職です。
「AI革命」と言われる現代、変化の速さに不安を感じ、「何か新しいことを学ばなければ」とあせる方もいるかもしれません。
今回は、故・外山滋比古さんの言葉をご紹介します。外山氏は〝知のバイブル〟と呼ばれた『思考の整理学』の著者として知られ、この言葉の前後に「見つめるナベは煮えない」とも述べておられます。これは鍋の中身を気にしすぎ、頻繁に蓋を開けたり、かき混ぜたりしていては、いつまで経っても煮えないように、「一つのことに執着しすぎると、かえって物事がうまく進まなくなる」という意味が込められています。。
AIに対し、人間ならではの強みは「発想力」です。実はAIは大量のデータを処理することは得意でも、全く異なる二つの物事をくっつけ、新しいアイデアを生み出すことは苦手だと言われています。
外山氏は、生前、AI時代を予言した人としても知られております。氏は、人間の発想力を高めるためには、「考えを寝かせる」、つまり「ときには忘れる」ことが大切と説きます。そのために昼寝をせよ、ともいいます。それも勉強のうちだと。ここが掲示板の言葉につながります。
悩みや不安にとらわれ、堂々巡りの思考から抜け出せなくなった時、無理に逃れたり、忘れようとせずとも、一度立ち止まり、思考を横に置いてみることが大切です。そうすることで物事を客観的に見つめ直せたり、新たな視点を得られますから。
この考え方は、信仰などにおいても同じです。一心に祈ったり、瞑想に励んだとしても、当てが外れてしまったり、心が乱れてしまうことがあるかもしれません。
お念仏は願い事をする行為ではありません。ことさらに無心をめざす必要もありません。ただ口に「南無阿弥陀仏」と称えます。それだけかと思うでしょうが、そこには、アミダさまと自然に向き合うための「ちからの抜けた姿」があります。この姿勢が、私たちに穏やかな心を与え、忙しい毎日を受け入れる力を与えてくれるのです。
早いもので、もう4月ですね。どうぞ、穏やかな日々をお過ごしください。