掲示板のことば

不定期に更新しております、真廣寺山門にある掲示板。その味わいを毎回記しておりますが、ここにそのバックナンバーを置きます。

まことにもって にんげんは いずるいきは いる をまたぬ ならいなり 〜れんにょ しょうにん〜

まことにもって 人間は 出ずる息は 入るを待たぬ ならいなり 〜蓮如上人〜 2020年4月

人間は呼吸をして生きていることを皆知っている。その呼吸はいつか止まることも知っている。しかし、その日がいつのことなのかは、誰も知らない。全く当たり前のことなのに、私たちは普段それを見ようとせずにいる。蓮如上人が御文でおっしゃるように、私たちは出した息を必ず吸える保証を持たない。生を受けたからには、いつか「帰る」身を生きているのだ。

昨今の「世界同時鎖国」と表現されるコロナウイルス騒動。これが昨日まで文明社会とやらを生きてきた人間の真の姿だ。それほどまでに「その日への備え」が一切できていなかったのだ。生と死を憶念することもなく、とことん今の楽しみしか考えて来なかったのだ。

そもそも人は病いで死ぬわけではなく、もとより死ぬ身を生きている。それが如来真実である。蓮如上人はさらに「人びとはただ、目の前の人生について、いつまでも生き延びられるように思い込んでいるようである。浅ましいというよりも愚かとしか言いようがない(取意)」ともおっしゃる。

「生の終わりを見つめながら今を意識して生きる」大切さと難しさを教訓としなければならない。それが「本尊」、本当に尊いことなのだから。

ただしさは にんげんからは なりたたない ただしさは あたえられる もの 〜いけだゆうたい〜

正しさは人間からは成り立たない 正しさとは与えられるもの 〜池田勇諦〜 2020年1月

私たちが話し合い、議論する時には必ず双方で「立場」をもつ。

例えばAさんにはAさんの、BさんにはBさんの立場があって話をすることになる。ということは互いに川の対岸に立って議論するようなもので、自分の「正しさ」を抱きしめているが故に、どれほど努力したとしても、双方の歩み寄りは起きない。

考えればわかるようなことだけれど、人はそれに気づかなくて、友人・家庭・地域・国家で争いを起こす。実は家庭内問題も国際問題も結局同じこと。「自分の正しさを握りしめて相手を殴りつける愚」が根底にあるのだ。

では真実の正しさはどこで得られるのか。それはお互いの「偏り」を教えてくれる眼に照らされるしかない。

人である以上、AさんもBさんも双方に正義の思いはあるだろう。けれどもその正義自体が、必ず自分目線に思考する偏りをもつもの。偏りを知らしめ、気づきを与えてくださるはたらきが真実である。

南無阿弥陀仏は一見、頼りないように見えるだろう。だがそれこそが偏った自分の正義に気づけよ、という真実からの呼び声そのものである。