不定期に更新しております、真廣寺山門にある掲示板。その味わいを毎回記しておりますが、ここにそのバックナンバーを置きます。
本願寺第8代・蓮如上人の語録『蓮如上人御一代記聞書』に出てくる言葉です。意訳すれば、【人は調子に乗るとどこまでものぼせ上がり、落としどころを知らぬ】という意味です。
司馬遼太郎さんの随筆に「悪童たちと凡夫」という印象的な話があります。浄土真宗の篤信の家に育った彼は、小学校の時、お姉さんと「法然上人と親鸞聖人のどちらが偉いか」で喧嘩をしたこともあったそうです。
あるとき、中学校の授業で「凡夫」という言葉の意味を先生に聞かれます。司馬さんは教科書どおり、「つまらぬ人」と答えました。先生は「そう、そのとおりや」と言いますが、続けて、「ところで、凡夫とはだれのことや」と尋ねられました。
さて、困りました。「この中に凡夫がいる」「誰のことやろ」と。「ひょっとすると不良化したKのことか」などと想像をめぐらし、また他人を「つまらぬ人」と決めつける気まずさもあって答えられませんでした。
しかし、先生は「おどろくべき正解」を仰います。「凡夫とは、つまりわれわれのことやな」「先生も?」「そう、凡夫や」。先生はこうも続けます。「ところで、日本歴史上の人物の中で、誰が最初に凡夫であると悟られたか」「その人が、日本の歴史の中で、もっとも偉大な発見をした人や」と。
「それは、法然上人と親鸞聖人や」
中学生には難しい課題でしたが、先生もそのことを承知しておられました。「大人になった時、もう一度今のことを思い出して、考え直してごらん。(略)もし大人になってわからなんだら、その人間は一生不幸な人や」と締めくくられたそうです。
凡夫とは他人のことではありません。自分を正しいと思い込み、限界を忘れ、あがり続ける他ならぬ「私」のことです。自分を凡夫と知ることは自己否定ではなく、人間の根本的傲慢を引き受ける姿なのです。
人間の美しさに「努力」があります。しかしそれが自分を頼りきる思いにすり替わるとき、人間は限界を忘れます。あがり続けているつもりで、落ちていることに気づかぬまま、なお自分を頼り続けるのも人間です。
凡夫であることを忘れ、私を超えたはたらきからのよび声「南無阿弥陀仏」を見失うと、本当に「つまらぬ人生」となってしまいます。
いただいて たりて ひとりの はしをおく 〜たねだ さんとうか〜
私たちは、日々の食卓の前で、「これで足りた」と思い、箸を置けているでしょうか。
今月は、大正から昭和の時代を、傘と草鞋で歩き抜いた「漂泊の俳人」種田山頭火(1882-1940)の言葉を紹介します。
彼は、世俗を捨てて旅に出たという優等生的・教科書的なイメージとは異なり、裕福な家庭に生まれながらも、半生を喪失と失意の連続の中で過ごしました。その果てに彼は、「自分自身から家出をする」かのように、孤独な放浪の旅へと踏み出します。晩年、ようやく安住の場を得ますが、その頃にはすでに体調を崩し、死の影が静かに忍び寄っていました。
今月の言葉は、そんな彼が一草庵時代に到達した境地とも言える一句です。ここで彼は「食べる」ではなく「いただく」と言い、さらに「足りて」と添えました。
そのころの彼の食卓は、友人からの差し入れや托鉢で得たお米による、つつましいものでした。旅の初期には、その暮らしを情けないと感じたこともあったそうです。しかし晩年は、次第にそれを「賜ったいのち」と受け止め、感謝の心へとつながっていったといいます。
ただ一方、彼は、裕福な時代の執着からか、極貧の中でも時に酒や煙草と決別できず、また、そんな自分を責め続けてもいました。彼の句には「どうしようもないわたしが歩いてゐる」など、孤独をうたうものも多く見られます。
この句には、「足りて」とあります。それは一汁一菜、あるいは雑炊のような食事であったかもしれません。それでも彼は、「今の私にはこれで充分」と受け止め、静かに箸を置いたのでしょう。ここでの「一人」には、孤独だけではない、確かな充足が感じられます。
さて、いかがでしょう。物価高といわれる一方で、最新の研究では、フードロスは事業者よりも家庭からの排出がわずかに多いと報告されています。さらに、高齢者世帯のロス量は、若年層世帯の約3倍とも言われています(2024–2025年 立命館大学・国立環境研究所共同調査)。
私たちは本当に、「いただいて」「足りて」箸を置けているでしょうか。
山頭火の一句に、しばし立ち止まって耳を傾けてみたいものですね。
ごじんの よにあるや かならずひとつの かんぜんなる りっきゃくち なかるべからず 〜きよさわ まんし〜
新年を迎えての言葉は清沢満之の言葉です。彼は明治時代の哲学者・宗教家で、夏目漱石や正岡子規といった文豪にも強い影響を与えました。何より真宗大谷派の近代教学を世界に開く偉業を成し遂げました。
「吾人」とは「われわれ」の意味です。また「なかるべからず」は、「ないことを否定」つまり、強い肯定の意味があり、「ないなんて許されない」ー すなわち不可欠である、という意味です。よって現代語にするなら『我々が世の中を生きてゆく上で、必ず、一つの完全な「立脚地」が不可欠だ』と言っているのです。
立脚地とは私の居場所・あるいは依りどころのことです。皆さんには「ここが私の居場所だ」と言い切れる場所はありますか。そして、そこは、ずうっと安泰でしょうか。
いやいや、新年早々何を聞いてくれるんだ、とおっしゃるかもしれません。でも、これほど人生における深くて大切な問いかけはありません。それは、ある人にとっては家庭でしょうか。ある方は職場や仲間、あるいは地域社会などを挙げる人もあるかもしれません。
ただしそれらは、私の気持ちに反して姿を変えます。依存すればするほど、私にとって都合の悪い姿へと変わっていきます。ずっと安泰な居場所・依りどころって、もしかするとこの世にはないのかもしれません。なぜなら、お釈迦様は「諸行無常(あらゆる行いは全て常ではない・移ろい変わるものなのだ)」とおっしゃいましたから。
とは言っても、それは虚無感ではありません。この世にあるものにすがって、この世だけを考えているから、また、移りゆく、姿を変えるものにすがっているからこそ、立脚地は定まらないのではないでしょうか。
志賀直哉の「ナイル川の水の一滴」という有名な随筆があります。彼は自分自身を悠久の歴史の流れの中の「水の一滴」とし、そして「その一滴は後にも前にもこの私だけで、何万年遡っても私はいず、何万年経っても再び生まれてはこない」と言います。「しかもなおその私は依然として大河の水の一滴に過ぎない。それで差支えないのだ」とも。彼をしてそこまで立たしめる「立脚地」が、彼にはあったのでしょう。
いかがでしょう。自他ともに一度きりの人生、新たな年のはじめに私の「立脚地」を考えてみませんか。
※2026年・大和大谷別院の1月号にもこの編集版が収録されています。