掲示板のことば・2009年

じんせい ごじゅうねんが しちじゅうねん に のびたのは しあがるのに てま がかかる なんぶつ がふえたからでは ~あさだ しょうさく~

人生五十年が七十年にのびたのは仕上がるのに手間がかかる難物がふえたからでは ~浅田正作~ 2009年12月

 かつては「キレる若者」という題名の記事を目にしたことが多かったが、最近は「キレる年寄り」という題名をよく目にする。「キレる」…すなわち自らに不条理な出来事が起こると、爆発的感情で反応する…ということなのだろうが、これは一言で「人間として成長できていない」現れである。

 誰しも自分の思い通りに生きたいのは当然のこと。しかし人は一人では生きてはいない。この世はそれぞれの思いの衝突場だといえよう。そもそも娑婆とは「堪忍土」と訳される。つまり耐え忍ぶ世界であるということが通常運転だということ。

 「それぞれの思いが満たされて幸せ」な世界なんて本来あるはずもなく、仮にあったとしてもそれは本当の平和ではない。所詮は私ども人間ごときの願い程度では世界を俯瞰できるべくもないのだから。

 ただ、その不条理によって私が私の限界を知らされたときこそ、初めて私を超えた普遍的な「本願(ほんとうのねがい)」に出遇う。仏教はそのための手助けをする。そうして人生の不条理の中で人間が熟成され、成長してゆくのだ。

 「人間五十年」とは平均寿命が短かった昔のこと。今は平均寿命が延びた。逆にいえばそれだけ感じる不条理も多いことだろう。だがそこで仏法をいただく生活に目覚めない限りは「ただひたすら火葬場に行くために生きた」人生を送りかねない。

 今年もあとわずか。空過してはいないか。

(2009年12月-web用に一部加筆)

ぼんのう をやめることは できぬけれど ぼんのう と しることは できる

煩悩をやめることは できぬけれど 煩悩と知ることは できる 2009年11月

 私たちはなぜ、素晴らしい本を読んで感動するのだろう。なぜ「いい言葉」に出会いたいと願うのだろう。また、どうしてお寺で話を聞こうと思いたつのだろう。

 それは、私たちの中から「そのままではいかんぞ」と訴える要求があるからだ。かつて清沢満之師は「人心の至奥より出ずる至盛の要求の為に宗教あるなり」と教えられた。人心の至奥とは、私たち自身のいのちのそのまた奥の「まことのいのち」を指す。そこから私たちは日々呼びかけられているのだ。「今、いのちがあなたを生きている」。概念のいのち(命)を超えて本当のいのち(寿)があなたの中に息づいている、これこそが本願の呼びかけではないか。

 先日、師に言われたことがある。「報恩講とは恩に報(むく)いることとは思っていないか。煩悩生活者のわたしたちが果たして本当に恩に報いることができると思っているのか。私たちはただ、そういう自分であるということを報(しら)されるばかりではないか」と。

 確かに素晴らしい言葉に出会うたびに気付かされるのは、至奥からの呼び声にひび背き続けどおしの、私の現実の姿ばかりである。

 しかしそれを報せてくださる仏法に遇うことこそ、まことにありがたい。報恩講の季節だ。煩悩を止めることはできないけれど、煩悩と報せていただきたく、手を合わせたい。

(2009年11月-web用に一部加筆

ねんぶつは なやみを なくす すべ ではない なやんでゆける みちである

念佛は悩みをなくす 術ではない 悩んでゆける道である 2009年10月

 悩みの深い時の夜は長い。悩んで夜も眠れぬのだろう、職場(難波別院・大阪市中央区)で宿直していたころは、夜中に悩み相談の電話でよくたたき起こされたものだ。相談というといかにも迷っているように思うだろうが、夜でも昼でも実は相談者にはひとつの共通点がある。

 それは「答えはすでに胸のうちにあり」である。人間が他人に相談する時、実はすでに本人の胸の内に答えはある程度決まっているものだ。だから相談者が求めているのは相手からの「後押し」にすぎない。あなたの選択は正しかったのだよ、という後押しを求めて人は他人に相談をする。

 どんなに独りよがりでも、自分の悩みぬいた結果に満足したいのが人間である。気持ちはわかる。しかし、そこに闇がある。悩んだのも答えを出したのも実は「人間」にすぎないという闇である。

 人間が悩むから、人間の範囲で悩み、人間の範囲で決着をつけようとする。いかにも近代自然科学主義にかなった物事の捉え方、考え方である。しかしそこに真実はない。なぜなら、私たちは普段意識こそしないが、人間を超えたところから支えられ生きているからだ。よって、そこに目を向けない限り、あなた自身の悩みは解決しないのだ。

 その支えるものとは何か。ある人は自然といい、ある人は生命の神秘と言い、またある人は神仏という。どれも違う。なぜならどれもが「わたしの延長線上の概念」で捉えようとする思考遊戯に過ぎないから。あるのは「ただ念仏」なのだ。

(2009年10月-web用に一部加筆

こまったら こまるとよいのです それをこまるまいと がをはるから もんだいなのです ~たかみつ かちよ~

困ったら困るとよいのです それを困るまいと 我を張るから問題なのです ~高光かちよ~ 2009年9月

 高光かちよ氏が東京に出かけたときのこと。当時すでに高齢であった氏は、土地勘もなく、不安を抱えてタクシーに乗り、恐る恐る行き先を告げたという。ところが運転手は一度無視した挙句、二度目には「わしら、お客さんかて荷物並みだから」と答えた。つまり、お前は荷物だから返事の必要がないというのだ(光雲社『智慧海のごとく』より)。

 普通なら喧嘩にでもなりそうなところだが、氏は「運転手さん、この荷物(自分のこと)だいぶん古くなっているから、こわれないように運んでね」と荷物になりきったのだ。するとどうだろう。運転手は自然と氏と会話を交わすようになり、到着したときには「お客さん、帰り気をつけてね」と人間らしい言葉をかけてくれたそうだ。

 ここから学ぶことがある。

 人間は常にわかりあいたいと思いながら、向かい合うと互いに傷つけ合う。人間の「知恵」の限界である。人間の「知恵」は人間の都合で考え、人間の理屈で判断し、我を張る。高光氏は如来の「智慧」に立たれたといえる。如来の「智慧」は人を包み、そのまま受け入れ、いのち本来の姿(=浄)を明らかにしてくださる。件の運転手は「智慧」によって「知恵」を破られ、人間性を取り戻したのだ。

 さて、私たちの番である。私たちはどちらの「ちえ」に立っているだろうか。

(2009年9月-web用に一部加筆

わすれては いけない ちきゅうは しゃくや

忘れてはいけない 地球は 借家 2009年8月

 先月22日、日本の陸地では実に46年ぶりとなる皆既日食が観測された。中継された皆既日食の状況はたいへん神秘的で、大自然のみならず大宇宙を地上で感じとることができる素晴らしい天体ショーであった。

 ところがその世紀の天体現象を興醒めさせるような話が後をたたない。観測メガネを大量に買い占めてひともうけ企んだ話、旅行会社の企画に乗ったものの、天候不順で観測できなかったと料金の払い戻しを求め争う話…。

 地上に生きているのは人間だけではない。にもかかわらず万物の霊長とばかりにわがまま勝手に過ごす人間。生態系のバランスをも破壊し、全て自分たちの都合の良いように置き換えてきた。

 私たちは知らねばならない。地上に生きるものはすべて共なる生命を生きているということを。仏教ではそれを「共命(ぐみょう)」という。仏典には、極楽に共命の鳥という一身二頭の鳥がいて、片方が勝手をしたばかりに共に死んでしまったという話がある。

 私たちも勝手ばかりしていると、いつかこの地球ごと滅びの道を歩むことになるのかもしれない。大宇宙を体感する天体現象を前にして、地上に「共命している事実」を考えたい。

(2009年8月-web用に一部加筆

わたしは わたしで ありたいが どんなわたしか わからない

私は私で ありたいが どんな私か わからない 2009年7月

 「自分探しの旅」などという言葉が流行し始めたのはいつのことだろうか。この言葉をキーワードにして「私らしさ」を探す旅をしたり、趣味に没頭したりする人が増えてかなりの時間が経った。しかし果たしてどれだけの人は「私」に出会うことができただろうか。

 仏教で「私」とは業縁存在であると教えられる。縁によってときどきに姿を変える存在だというのだ。縁によってどうにでも変わってしまうから「私」なんていう「いつまでも変わらないもの」はそもそも存在しない。いつも変わり続けてじっとしていないのが「私」なのだ。

 養老孟司氏がかつて提唱した「バカの壁」とは、それに気付けない私たちの愚かさを指す。

 仏教ではさらに、そうして姿を変え続ける私を「無」と説く。「無我」とは移ろい変わって中身のない私のことである。だから「空」ともいう。だが悲観することはない。無我とは「我無し」すなわち、周囲の縁なくして片時も存在し得ない私ということ。つまり私たちはどんなにうそぶいても「孤独」ではない。もし孤独を感じているとするならばその問題は全て「自分の側」に根本がある。

 やがて梅雨もすぎ、夏が来る。日差しを浴び、人と出会おう。そこできっと私とは繋がりそのものであったということに気付かしめられることだろう。

(2009年7月-web用に一部加筆

じんせいに けしごむはない きょうを ていねいに

人生に 消しゴムはない 今日を ていねいに 2009年6月

 先日、言わなくてもいいことを人に言ってしまい、後悔している。

 その時はよかれと思って行ったことが相手には辛辣だったのだろう。「後悔先に立たず」、相手との関係修復にはしばらく時間がかかりそうである。

 「なんであんなことを言ってしまったんだろう」「昔に戻ってやり直したい…」誰もがそう感じることはある。だが、時間の流れは万人に平等である。省みること、すなわち「反省」はできても時間をさかのぼってやり直すことはできない。

 寄せては返す波や、風にゆらめく木々とて、一瞬一瞬は貴重である。なぜなら二度と全く同じ動きはしないのだから。毎日同じことを繰り返す人生だと虚しく感じても、それは私が鈍感なだけで、全く同じ一日は二度と経験しない。

 仏教では瞬間を「刹那(せつな)」と呼ぶ。刹那の積み重ねが「時間」である。一瞬一瞬の人生の煌めきを大切に受け取って一日一日を大切に生きよう。

(2009年6月-web用に一部加筆

しんぶんの さんめんみていると みんなわたしのことばかり ~きむら むそう~

新聞の三面みていると みんなわたしのことばかり ~木村無相~ 2009年5月

 先日、某アイドルの泥酔事件が新聞の一面を騒がせた。しかし反省の会見を観て、いささか疑問を感じた。すでに逮捕され、活動自粛と社会的制裁を充分受けている者に対して、そこまで執拗に責め立てる資格が我々にあるのかと。

 今やマスコミも不況下にあるという。不況知らずと言われたマスコミがである。一因としてCMスポンサーが減少しているのだという。それはすなわちマスコミの持つ「公共性」に対する社会からの信頼低下の現れではないか。感情的にただただ正論を振りかざして人を晒し者にする…彼らは「明日は我が身」という言葉を忘れたかのようである。

 かつて星野仙一氏がブログでこう語った。「本当に一点の落ち度もない人間なんていないことを普通の大人なら知っている。社会に必要なのは落ち度のない人間ではなく、真剣に職務に邁進してくれる人ではないのか。昨今の攻撃的な報道に危機と不信を感じる」と。

 宗祖親鸞聖人は「歎異(たんに)の精神」を説く。かの歎異抄に有名な言葉である。曽我量深氏は「歎異こそ真宗再興の精神である」と讃えられた。歎異とは、他人に対して正義をかざす前に、私自身に正義がこれっぽっちもないという自覚を持て、ということである。他者を責める前に私自身こそ責められる身ではないかと自覚することで歎異の精神は始まる。

 新聞の3面記事は、全て私じゃないか。お恥ずかしいことだ。少しの縁で何をしでかすかわかったものではないこの私。決して他人事にして安直な正義を振りかざしてはならない。

(2009年5月-web用に一部加筆

ほんものは つづく つづけると ほんものになる 〜 とうい よしお 〜

ほんものは つづく つづけると ほんものになる ~東井義雄~ 2009年4月

今年も春の訪れとともに、いろいろ新しい物事が動き始めた。桜・新入生・新入職員はそういう「新しさ」を代表してくれている姿だ。

おそらく最初は見るもの聞くもの全てが新鮮で生き生きしていることだろう。とはいえ、これは誰もが通る道であるが、やがてその気持ちは色褪せ、多くの物事にぶつかり、失望し、そういう自分に悩んでゆくことになる。

「こんなはずじゃなかった」人それぞれに失望の理由はあることだろう。ただ一つ申し上げたい。「天職」なんてそもそも存在しないものである。悩む自分を真正面から見据え、その物事をひとつひとつ引き受けて行くことで初めて自分の「天職」は見出せるものなのだ。続けることでほんものに出遇う、続けることでほんものが何かがわかるのだ。

仏法とて同じである。耳に心地よい、現世の幸せばかりをうたう短絡的な教えが巷にあふれているが、果たしてそれは本当に私の本性を正面から問うてくれるものだろうか。私がひごろ目を背けていきている「ほんとうの私」を知らしめてくれるに足るものだろうか。真実の教えはわかりにくく、そしてかすかである。だから続けなければならない。真実からのかすかな呼びかけに耳を傾けるために。 (2009年4月)

よいことを しようとおもえば できる わるいことをすまいとおもえば やめられる これを おもいあがりという

よいことを しようと思えばできる 悪いことをすまいと思えばやめられる これを 思い上がりという 2009年3月

「悪人正機」。一度は目にしたことがある言葉ではないか。浄土真宗の教えの根本の一つである。悪人こそが救われるという。残念ながら古来、この教えはずいぶんと誤解されてきた。例えば「わざと悪いことをしたやつが救われるのか、なんとけしからん教えだ」というように。

「善いことをする人が善人というならば、果たしてわたしたちは本当に善人と言い切れるのか?」この深い自己省察こそが「悪人正機」の正しい意味をいただくのに必要な姿勢である。なぜなら私たちの生活は日々「毒入り」ではないか。良かれと思ったことが悪く受け取られ、相手とすれ違う。思い込みから相手の行為を踏みにじることもしばしばである。善も悪もわかったものではない。

実は私たちはそういう悲しいいきものなのだ。そういう人間であるということへの悲しみ。その深い自覚がない限り悪人正機の意味するところににほんとうに触れることはできない。それどころか無明の闇から抜け出ることもできないだろう。

南無阿弥陀仏(絶対他力)の慈悲の中にありながら、いまなお自分の意思(自力)で善を行えたり、悪をやめられると思っているならばまさに「思い上がり」の人生だ。(2009年3月)

さびしい ときは こころの かぜです

さびしい ときは 心の かぜです〜 原田大助 〜 2009年2月

季節外れな話題であるが、ある住職が以前「最近、子ども会などできもだめしができなくなった」とおっしゃった。どういうことか。それは現代に完全な「闇」がないということだという。そういわれれば身近に闇がなくなった。どこもかしこも一晩中、明かりが煌々とともっている。

近代以降、人間は科学を発展させ、闇を追いやり、住みやすい社会を目指して努力してきた。闇とは単なる明暗にとどまらない。生死や生活の闇、つまりは不自由で不便な状況のことである。そして今や昔から見れば夢のように恵まれた生活環境にある。

だのに今、違う闇が私たちを覆っている。「こころの闇」である。身近な目に見える闇を順番に廃して行ったら、私たちの中に闇が見えた。現実世界においてもそうだが、闇と光は反対の関係でもあるが、助け合う関係であった。いまやそのバランスが崩れてしまったのではないか。

文化人類学者の上田紀行氏は「闇を持たないことの闇」と指摘する。それは必要な闇まで自ら排除してしまった私たちへの警告である。

「さびしいときは 心のかぜです せきして はなかんで やさしくして ねてたら 1日でなおる」。養護学校の原田大助くんは根本的なことを教えてくれているように思う。 (2009年2月)

かぎりなき ひかりを うけて ここにあり

かぎりなき 光をうけて ここにあり 2009年1月

どれほど永く閉ざされていた部屋でも、光が差し込めば一瞬で明るくなる。百年ものあいだ閉ざされていた部屋に光が届いたとしても百年かけないと明るくならないわけではない。一瞬である。

私たちが物事の本質に気づかされるのも一瞬である。

どんなに永く悩み苦しんできたとしても、真実は一瞬で私に届く。それを先人は「照らされる」経験としてきた。実際に光が見えるのではないが、まさに目の前を照らされる体験なのだ。

仏教では仏の智慧を光にたとえ、人間の知恵を闇にたとえる。おなじ「ちえ」でも大違いで、人間の知恵は積み重ねないと得られず、またいつか失われたりもする。いっぽう仏の智慧は積み重ねる必要もなく一瞬である。またその智慧の光を受けた感動は容易には消えない。だからこそ「照らされる」表現がふさわしいのだろう。

夜が長いこの時期、朝の訪れを目の当たりにする機会が多い。一晩中真っ暗闇だった部屋に光が差し込み、それこそ瞬時に明るくなる。闇はかならず仏の智慧によって破られる。どんな長い夜も朝が来るように。(2009年1月)