掲示板のことば・2009年

人生五十年が七十年にのびたのは仕上がるのに手間がかかる難物がふえたからでは ~浅田正作~ 2009年12月

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煩悩をやめることは できぬけれど 煩悩と知ることは できる 2009年11月

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念佛は悩みをなくす 術(すべ)ではない 悩んでゆける道である 2009年10月

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困ったら困るとよいのです それを困るまいと 我を張るから問題なのです ~高光かちよ~ 2009年9月

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忘れてはいけない 地球は 借家 2009年8月

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私は私で ありたいが どんな私か わからない 2009年7月

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人生に 消しゴムはない 今日を ていねいに 2009年6月

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新聞の三面みていると みんなわたしのことばかり ~木村無相~ 2009年5月

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ほんものは つづく つづけると ほんものになる 〜 とうい よしお 〜

ほんものは つづく つづけると ほんものになる ~東井義雄~ 2009年4月

今年も春の訪れとともに、いろいろ新しい物事が動き始めた。桜・新入生・新入職員はそういう「新しさ」を代表してくれている姿だ。

おそらく最初は見るもの聞くもの全てが新鮮で生き生きしていることだろう。とはいえ、これは誰もが通る道であるが、やがてその気持ちは色褪せ、多くの物事にぶつかり、失望し、そういう自分に悩んでゆくことになる。

「こんなはずじゃなかった」人それぞれに失望の理由はあることだろう。ただ一つ申し上げたい。「天職」なんてそもそも存在しないものである。悩む自分を真正面から見据え、その物事をひとつひとつ引き受けて行くことで初めて自分の「天職」は見出せるものなのだ。続けることでほんものに出遇う、続けることでほんものが何かがわかるのだ。

仏法とて同じである。耳に心地よい、現世の幸せばかりをうたう短絡的な教えが巷にあふれているが、果たしてそれは本当に私の本性を正面から問うてくれるものだろうか。私がひごろ目を背けていきている「ほんとうの私」を知らしめてくれるに足るものだろうか。真実の教えはわかりにくく、そしてかすかである。だから続けなければならない。真実からのかすかな呼びかけに耳を傾けるために。 (2009年4月)

よいことを しようとおもえば できる わるいことをすまいとおもえば やめられる これを おもいあがりという

よいことを しようと思えばできる 悪いことをすまいと思えばやめられる これを 思い上がりという 2009年3月

「悪人正機」。一度は目にしたことがある言葉ではないか。浄土真宗の教えの根本の一つである。悪人こそが救われるという。残念ながら古来、この教えはずいぶんと誤解されてきた。例えば「わざと悪いことをしたやつが救われるのか、なんとけしからん教えだ」というように。

「善いことをする人が善人というならば、果たしてわたしたちは本当に善人と言い切れるのか?」この深い自己省察こそが「悪人正機」の正しい意味をいただくのに必要な姿勢である。なぜなら私たちの生活は日々「毒入り」ではないか。良かれと思ったことが悪く受け取られ、相手とすれ違う。思い込みから相手の行為を踏みにじることもしばしばである。善も悪もわかったものではない。

実は私たちはそういう悲しいいきものなのだ。そういう人間であるということへの悲しみ。その深い自覚がない限り悪人正機の意味するところににほんとうに触れることはできない。それどころか無明の闇から抜け出ることもできないだろう。

南無阿弥陀仏(絶対他力)の慈悲の中にありながら、いまなお自分の意思(自力)で善を行えたり、悪をやめられると思っているならばまさに「思い上がり」の人生だ。(2009年3月)

さびしい ときは こころの かぜです

さびしい ときは 心の かぜです〜 原田大助 〜 2009年2月

季節外れな話題であるが、ある住職が以前「最近、子ども会などできもだめしができなくなった」とおっしゃった。どういうことか。それは現代に完全な「闇」がないということだという。そういわれれば身近に闇がなくなった。どこもかしこも一晩中、明かりが煌々とともっている。

近代以降、人間は科学を発展させ、闇を追いやり、住みやすい社会を目指して努力してきた。闇とは単なる明暗にとどまらない。生死や生活の闇、つまりは不自由で不便な状況のことである。そして今や昔から見れば夢のように恵まれた生活環境にある。

だのに今、違う闇が私たちを覆っている。「こころの闇」である。身近な目に見える闇を順番に廃して行ったら、私たちの中に闇が見えた。現実世界においてもそうだが、闇と光は反対の関係でもあるが、助け合う関係であった。いまやそのバランスが崩れてしまったのではないか。

文化人類学者の上田紀行氏は「闇を持たないことの闇」と指摘する。それは必要な闇まで自ら排除してしまった私たちへの警告である。

「さびしいときは 心のかぜです せきして はなかんで やさしくして ねてたら 1日でなおる」。養護学校の原田大助くんは根本的なことを教えてくれているように思う。 (2009年2月)

かぎりなき ひかりを うけて ここにあり

かぎりなき 光をうけて ここにあり 2009年1月

どれほど永く閉ざされていた部屋でも、光が差し込めば一瞬で明るくなる。百年ものあいだ閉ざされていた部屋に光が届いたとしても百年かけないと明るくならないわけではない。一瞬である。

私たちが物事の本質に気づかされるのも一瞬である。

どんなに永く悩み苦しんできたとしても、真実は一瞬で私に届く。それを先人は「照らされる」経験としてきた。実際に光が見えるのではないが、まさに目の前を照らされる体験なのだ。

仏教では仏の智慧を光にたとえ、人間の知恵を闇にたとえる。おなじ「ちえ」でも大違いで、人間の知恵は積み重ねないと得られず、またいつか失われたりもする。いっぽう仏の智慧は積み重ねる必要もなく一瞬である。またその智慧の光を受けた感動は容易には消えない。だからこそ「照らされる」表現がふさわしいのだろう。

夜が長いこの時期、朝の訪れを目の当たりにする機会が多い。一晩中真っ暗闇だった部屋に光が差し込み、それこそ瞬時に明るくなる。闇はかならず仏の智慧によって破られる。どんな長い夜も朝が来るように。(2009年1月)