掲示板のことば・2011年
ぶっせつは ぶつでしに よって あかしされる 〜 やすだ りじん 〜
仏説は 仏弟子によって 証しされる 〜 安田理深 〜 2011年12月
この言葉に出遇ったとき、とても嬉しくなった。
なぜならこの言葉は私たちの仏法に対する姿勢をどこまでも認め、赦してくれる言葉だと思うからである。
私たち人間の知恵・教養はどこまでも「だれかがそういった・いわないの伝聞と継承」に終始してゆくように思う。それは決して師を超えることがない歩みでもある。
ところが、仏法はそうではないというのだ。仏法を聴聞し受け取った者が自らの人生を通して仏法を味わう。その歩みは時として師の意図するところ以上に広がりをみせるといえる。
故安田理深師は、「教える人よりも教えられる人が大切である。教えの大きいことや深いことは、教えられた人の自覚によって明らかにされるものである。それが仏道というものである。そうでないといたずらに子分となって、結局じり貧に陥ってしまう」とおさえられる。まさしく、仏説は仏弟子が証ししてゆくといえよう。
じり貧にならない歩みが仏教にはあるのだ。私はどうであろうか。 (2011年12月)
うらをみせ おもてをみせて ちる もみじ 〜 りょうかん 〜
裏をみせ 表をみせて 散るもみじ 〜 良寛 〜 2011年11月
今月の言葉はかの有名な「良寛さん」の句である。子ども好きでおだやかな良寛さん。その人柄の良さは後世の誰もが認めるところである。だが彼の死因をご存知だろうか。一説では直腸癌、もしくは大腸癌であったという。治療法が現代ほど確立していない当時、激しい痛みに苦しみながら糞尿の中を転げ回って亡くなってゆかれたともいう。決してのちの小説に彩られた穏やかな末期ではなかったのだ。
しかしどうだろう、そうだからといって子ども好きの良寛さんの生き様・人柄はいささかも傷つくことはない。まさに私たちの人生には裏があり、表がある。苦楽、盛衰…だがどちらであろうと、人生の価値はかわらない。ちょうど紅いもみじの美しさは裏も表もがあってのことのように。
人生には四つの決まりごとがあるという。「繰り返せない」「代わってもらえない」「必ずおわりが来る」そして「そのおわりがいつ来るかわからない」。
いつ来るか知れぬ人生のおわりを前に、四つのきまりごとをどう受けとめ、どう生きたか。それが大切である。 (2011年11月)
ぶっぽうは てっぽうの はんたいである
仏法は 鉄砲の反対である 高光大船 2011年10月
「言葉に遇う」ということがある。言葉につかまれ、言葉に感動する。ときにそれまでの人生の方向がかわってしまうほど、言葉が我が身に響くこともある。まさに言葉にあうことで千歳の闇室に光明が射し、無明の闇が晴らされる。
だが、言葉は所詮人間の道具。言葉には限界がある。言葉で他人の内面や感覚を表現し尽くせるものではない。近代教育によって何でも理知的に分析したがる私たちは、言葉を効率よく聴きためることに懸命になるあまり、言葉を武器にしてしまうことがある。私を感動させてくれたはずの言葉で武装し、相手に刃物のようにつきつけ、説き伏せることがよいことと勘違いする。せっかく私の闇を晴らしてくれた言葉に対し、これはひどい仕打ちではないだろうか。
仏法も言葉で説かれる。仏法はどこまでも智慧の光として人の心を打つが、鉄砲は人間の知恵が、ともすると使い方を誤るという点で闇である。何気ないひと言で相手を撃ってはいないか。撃った本人こそが一番その言葉から遠ざかっているというのに。 (2011年10月)
ひとのよの ちいさきはからい あきのかぜ
人の世の 小さき はからい 秋の風 2011年9月
はからいとは、「計らい」と書く。はっきり言えば計算である。『人のはからい』と言えば、それはつまり、人間にとって都合の良くなる行動のための計算、ということか。
ただ「人間」と書くとどうも主語がぼやけているようだ。人間とはほかならぬ私自身ではないか。ひとごとではない。すべて『私のはからい』である。見渡せば、人間一人ひとりが「私」をもち、私の都合のために計算している。それを皆がやれば「人の世」という表現になる。
さて、自然とは「自ずから然らしむ(おのずから しからしむ)」という。自然の脅威というが、自然はただそこにあるだけで、縁が来れば起こり、縁が来なければ起こらない。善も悪もなく、ただ縁によって起こる。
そこに善悪すなわち都合の善し悪しをつけているのは誰なのか。ちいさな人間のちいさなはからいが、大きな自然の法則の前に問われている。
そろそろ秋の訪れである。夏も秋も、人間の計らいでは用意できない。合掌。 (2011年9月)
ほんとうの ちからは りきみをぬく ちからである
ほんとうの力は 力みをぬく力である 2011年8月
テレビの特集で、老後の設計は大丈夫だと胸を張る独居老人を見た。他人の世話にはなりたくないのだというが、現代人の孤独と苦しみはそこにあるのかもしれない。
「我」という理想像が強すぎるあまり、他人に甘えることを拒絶する。自ら力むことで、ぎくしゃくし、孤独と苦しみを生んでいるということに気づけない私たち。「人と仲良くするには弱みを見せることだ」とかつて師にいわれたことがあるが、現代人は真逆で、人に対して弱みはみせたくないという「強さ」にしがみつく。それは果たして本当の強さだろうか。
このたびの原発事故で「想定」という言葉はどんなに空虚だったかを知ったはずだが、相変わらず自分の「想定」には余念がない現代人。かつて高光大船は『説明と談義と『ねばならぬ』で生き』る私たちの姿を悲しんだ。仏法では蚕が自らはきだした絹で自分の殻に閉じこもる姿を「蚕絹自縛(さんけんじばく)」という。
力みを抜き、強さも弱さもあるがままに生きるということがほんとうの力である。自らを縛ってはいないか。 (2011年8月)
あやまちて あらためざる これを あやまちという〜ろんご〜
過ちて改めざるこれを過ちという〜論語〜 2011年7月
過(あやま)ちを犯さない人はいない。誰もが人生で幾度か過ちを犯す。しかし過ちを過ちとして認め、自らを省みることができれば、それは本当の意味で過ちではない。人生の糧であるといえる。
「やりなおすことのできない人生であるが、見直すことはできる」との力強い言葉は金子大栄師のご教示である。過ぎたことをやりなおすことはできない。だが見直すことで、自ら犯した過ちを認め、踏み台とし、よりよい今とそして未来を考えることができる。そればかりではなく、あやまちであったはずの過去がそのままで救いとなって行く。これは人間のもつ力ではない。仏の智慧である。悩み多く欲多き我ら凡夫にも、こうして仏の智慧がはたらいてくださっている。
さて、あれほど懲りたはずの原発である。かといって電気は必要だ。すぐに廃止することはできないだろうけれども、後世のために今こそ知恵をふりしぼって、根本から「何か」を見直さなければならない時である。しかし、どうやら欲に目がくらんだ人々は、まだ過ちにしがみついておられるようだ。過ちて改めざる。なんと愚かな。なんと憐れな。 (2011年7月)
にんげんは えらいものではない とうといものです
人間は 偉いものではない 尊いものです 2011年6月
震災から3ヶ月が経つ。未曾有の災害から今、復興への歩みが始まろうとしている。だが依然、新聞では長引く原発事故の経過と、それをめぐる愚かしい政治の駆け引きの話ばかりだ。
誰もがこの世に「絶対」はどこにもない事を知っている。だのに人間は時に言葉に酔い、あてにならないものを答えと決めつける。まさにこの度の原発をめぐる人々の行動がそうであったように。
「絶対安全」をうたい文句に反対意見を封殺し、利益優先の安全対策に走ったあげく、有事には安全機構が一切機能しなかった。事故であるのに事象とごまかし、そして事故を統括しても「甘かった」「想定外」「予想できなかった」という。ならば「絶対安全」「クリーン」となどといった浮かれた言葉を安易に使うべきではなかった。誰しも人間は完全ではない。まして万物を支配でき、予想しつくせるほど偉いものでもない。そのことにまず謙虚にひざまづかねばならない。
一方で人間は万物を超越したはたらきを感じ、考えることができる存在でもある。それを忘れ、手製の楼閣にすがって生きている私たちの姿は滑稽ですらある。自ら安心を作り出そうとするところ、作れると思うところに根本的な人間の誤りがある。安心はいただくものである。それに気付いたとき、人間は尊いものであったと知らされる。 (2011年6月)
にんげんは みみが ふたつに くちひとつ おおくきいて すこし いうため
人間は 耳が二つに 口一つ 多く聞いて 少し言うため 2011年5月
日本人は議論が苦手だという。狭い島国に生きる上で、無用な衝突を避けたいという歴史的精神構造がそうさせるのだとか。だが昨今、文化や経済の国際化を見るにつれ、異文化に我々を解ってもらうためにも議論する技術が必須課題だろうと思う。
しかしテレビの公開討論会などを見ていると、やはり日本人は議論が苦手なのかな、と実感する。何が欠けているのだろう。それは「聞くこと」である。おしゃべりな人は議論ができない。では何をしているのか。一方的な「発表会」である。自分の思いを伝えることにご執心のあまり、他人の言葉が耳に入らないのだ。結局人間が他者や異文化を理解できない根本は、自らの耳元と口先に問題があるのかもしれない。
蓮如上人は「講」という念仏の集まりを大切にされた。そして互いの信心について話しあうことを強く推奨された。さらには黙っている者に「物をいわぬ者は、おそろしき」と叱咤されたという。それは話す事も聞くことも苦手な日本人に、対話することの大切さを知らしめようとされたのではないだろうか。
他人の意見を聞かない、これを我慢といい、自分の意見を聞かそうとする。これを驕慢という。いずれも「慢心・おごりたかぶり」を意味する。道徳でいうガマンも、仏教の目からすれば「慢心」の延長線上にある。対話の基本姿勢は「謙虚に聞くこと」にあり。さて、私たちの両方の耳は「聞けて」いるか。(2011年5月)
にんげんの おろかさは なににたいしても こたをもっているということです 〜 みらん くんでら〜
人間の愚かさは何に対しても答えをもっているということです〜ミラン・クンデラ〜 2011年4月
未曾有の震災が列島を襲い、津波が追い打ちをかけた。加えて原発の災厄が日を追って色濃くなる。日本のみならず世界が安危を同じくしている。
だがこの最中、聞き捨てならぬ言葉がある。「想定外」である。仏教では、災難はいつも人の想定を超えて来るものと教える。だから「想定外」こそ災難の常であって、それを口にするのは人間の「おごりといいわけ」ではないだろうか。人智を超えた仏の智慧によらず、浅薄な人間の知恵を全てと過信し、安易な「答え」の前に「問い」を見失い、自らの道徳と知識で生きてゆけると想定してきた人間の、愚かさと悲しさが浮き彫りになる。
津波に襲われた町で生還した老婆が絞り出すように後悔の念を新聞に語る。「皆どこかで津波を軽んじていたのではないか」。ヒトの「答え」は常にヒトを超えた大きな力によって否定されてきたのだ。
念仏者・高光大船は、実家が破産の憂き目に遭ったとき「私は人々の規定している様な生活者ではないから、一向利害を感じて居ない」と語った。それどころか「却って私には其事によって歴然として展開される久遠の実性を見る事のできる喜びがあります」とさえ言われた。また、良寛さんは「災難に遭う時節には遭うがよく候」と言われた。常に「想定」という知恵にあぐらをかく私たちは、今まさに「足下から」問われている。 (2011年4月)
※この言葉は、故宮城 顗先生が積極的に紹介された「ミラン・クンデラ」という方の言葉だそうです。私自身、原文には当たっておりませんでしたので、掲載当時は「宮城 顗先生からの聞き書き」という形にさせていただきました。
がっしょうの すがたは とうとく ねんぶつの こえはうつくし
合掌の姿は尊く 念仏の声は美し 2011年3月
いよいよ宗祖親鸞聖人の750回御遠忌が京都・東本願寺にておつとまりになる。全国より御同朋・御同行が一同に会する50年に1度の聞法の会座である。ところが、そういう座において、「念仏の声が聞かれない」という。言われてみればそうかもしれない。御遠忌に先立つ「おまちうけ法要」の座においても念仏の声がちいさかったという。
阿弥陀如来は久遠のかなたより、我々に対して「わが名を呼べ」と願いつづけてくださっている。念仏は唯一その願いにこたえる姿である。人が合掌し仏を念ずるとき、その心もちがどうあろうと、周りの人はその礼拝の姿に敬虔な感情を受ける。受ける人に仏の利益を知らしめる行・私が満たされるだけではない行・そして誰もがどこでも実践できる行・でも「私が行ずる」のではない行。それが念仏である。
目先のことばかりを考え、利害損得にしか立てない、罪深き人間たち。かつてある老母が、「念仏が役に立つとは思えない」という息子に「たしかに念仏では食えんかもしれんが、念仏せんと食べたもんが無駄になるぞ」といったという。
合掌の姿と念仏の声は、そんな我々をして仏の願いにかなう姿を与えてくださる。合掌する私が尊いのではなく、その念仏を届けてくださる如来の本願が尊いのである。「一切衆生悉有仏性」。せわしき現代人の上に仏が現ずる一瞬。さあ手を合わせ、口に念仏を。(2011年3月)
きくとは がをたてぬ ことである 〜かねこ だいえい〜
聞くとは 我をたてぬことである ~金子大栄~ 2011年2月
「きく」という言葉には二義あるという。ひとつは「聴く」。もうひとつは「聞く」である。「聴く」は理解するべく一生懸命キクということを指し、「聞く」は耳に入るままキクことを指す。現代の感覚では一生懸命「聴く」は正しく、耳に入るまま「聞く」はいい加減な態度として受け取られがちだ。
だが忘れてはいけない。仏法は「聴聞」するという。どちらも大切なのである。同じように見えても、前者は内容を理解することに執着してしまいがちである。「歩みが止まる」のだ。後者は確かにすぐ忘れるかもしれぬが、ゆえに何度も聞く。それは「歩み」である。頭の理解も大切だが、「仏法は毛穴で聞け」とは先達の言葉である。
現代人は見るもの聞くもの全てを分析し、頭で理解せずにおれないが、それはひたすら「我」に執着する姿である。知識はわが身以外を問題とし、とうとうわが身を問わない。それは「無明」である。蓮如上人はそういう姿を「われこころえがお(我心得顔)」と呼ばれ、「ひとまねばかりの体たらくなりとみえたり」と指摘される。
私たちは理解した「つもり」を生きているだけなのかもしれない。そんな浅薄な知恵ではなく、虚心に仏の智慧をいただくことが、今こそわれわれに必要なのではないだろうか。(2011年2月)
まつながさ すぎさるはやさ いきるいま
待つ長さ 過ぎ去る速さ 生きる今 2011年1月
年が明け、新しい日が始まった。年末のせわしさもひと段落、何はともあれ世間は穏やかに正月気分を迎えている。
子どものころは「もう幾つ寝ると…」と正月を待ちこがれつつ、正月までの時の長さを感じたものだが、大人になれば「もう正月」とせまりくる時の速さのみを強く感じる。…この速さは過ぎ去った時間の速さでもある。
一説には私たちの感覚として、生まれてから二十歳までに感じる時間の長さとその後の人生全体で感じる時間の長さはほぼ同じなのだとか。真偽はともかく、私たちとは、それほど年々時間の感覚がおろそかになってゆく生き物なのだ。
時間の流れを書き表すとき、通常なら「過去・現在・未来」と書く。が、蓮如上人は「過去・未来・現在」と書かれる。たかが順番と思うことなかれ。いまだ見ぬ未来にあこがれつつ、過去を忘れようとし、そして現在をおろそかにしている私たちの姿そのものではないか。上人は「現在を大切に生きることこそ」が、忘れてしまいたい過去を逆に生かしつつ、希望に満ちた未来を歩めるのだと云われるのだ。
猛烈な速さで私の身を駆け抜けるこの「時間」。さてどう受け止めるか。私たちのもっとも大切にすべき年頭所感であろう。 南無阿弥陀仏。
(2011年1月)