掲示板のことば・2019年

じんせいに よせい なんて ない 〜 まつだ せいなん〜

人生に 余生なんて ない 〜松田 清男〜 2019年10月

山形県の樽石大学は普通の大学ではない。「卒業のない生涯学習の学校」である。松田清男学長はいつでも元気いっぱいである。講演会では「ねむかげする人、えねなよ(居眠りする人はいないよ)」という。

その元気の源がこの言葉だ。「人生に余生なんてない。全部、本生です」「考えてみれば老後以前(仕事を引退するまで)が“本当の人生”で、老後が“余った人生”というのもおかしなハナシ(人生の言葉あずだす・シティムラヤマ出版会より)」この言葉からもわかるように、学長はいつでも人生に責任を持っておられ、真剣であり、かつ前向きである。

いま、老いも若きも安易に他者を「批判」することで満足や安心を得ようとする時代。その最たるものがテレビや新聞、SNSではないだろうか。自分自身を顧みず、人ばかり責める姿勢からは無責任と依存と争いしか生まれない。本来、私たちには自らを「掘り下げる」ことのできる仏の「智慧」が与えられている。そこから開かれる世界を「歎異」ともいう。

人の批判はちょっと横に置いてみよう。自分を見つめ、掘り下げ、自身を発見する。きっと毎日が新しい。そこに「余生」なんてものはない。

「われ しんず」 の 「われ」が とりさられたのが じょうどしんしゅうの しんじんです 〜おおみね あきら〜

「我信ず」の「我」が取り去られたのが 浄土真宗の信心です 〜大峯 顯〜 2019年7月

私たちが新聞を読んだり、テレビを見る時といえば「この情報は私の役に立つか・立たないか」あるいは「私にとって解りやすいか・そうでないか」である。無理もない。私たちは生まれてこのかた「選ぶか・選ばれるか」しか知らずに生きてきたのだから。

しかし、その私の「選び」を飛び越えて「生きろ」と呼びかける不思議があるとすればどうだろう。「そんなもんあるかい」と思うことなかれ。あなたの心臓は健康な生活をしていようが、不健康だろうが、おかまいなしに動き続けてくれているではないか。あなたの呼吸は寝ている間でもあなたを生かし続けてくれているではないか。

こういった不思議な感覚にふと出遇うこと、そして、役に立つ・解りやすいという選びを越え、それこそ「このいのちは一体なんのためか」と、わからなくとも真剣に思う心の起こること、それが宗教心である。つまり「無宗教」なんて軽々しいものはどこにもない。

さらにそこから一歩踏み出し、「俺が・私が」を取り去って話をきくことができた時こそが、浄土の真実を説く「浄土真宗」の救いに生まれて初めて出遇える瞬間なのだ。さてさて、仏法のことは、いそげ、いそげ。

くすり あればとて どくを このむべからず 〜しんらんしょうにん・たんにしょうより〜

くすりあればとて 毒を好むべからず 〜親鸞聖人・歎異抄より〜 2019年4月

人間の不安を華厳経では〝五怖畏(ごふい)〟と呼ぶ。それは「生活」・「死」といった未来への不安や、「大勢の前で恥をかく」・「陰口を言われる」など、おおむね〝外からもたらされる不安〟ばかりだが、そのひとつ「堕悪道畏(だあくどうい)」だけは色合いが異なる。それは「自分はこのままでいいのか」という〝内面からくる不安〟である。

解釈にもよるが、たとえばスイーツやお酒が目前にあったとする。食べたり飲んだりすればきっと身体に悪い。それを私は充分承知している(堕悪道)、なのにやめられない…この世で最も厄介なのは悪と知っても悪を止められぬ自身の内面ではないだろうか。そういう私たちを親鸞聖人は「くすりがあるからといって、毒を好むものではない」と喩(たと)え、諌(いさ)められた。

かつて植木 等は「わかっちゃいるけどやめられない」と歌った。父・徹誠は寺の跡取り息子が芸能活動をすることに否定的ながら、この歌詞だけは褒めたという。「私は悪を犯さない」といい切れる人にしても、自力で内面が保てているわけではない。縁によって人は何をしでかすかわからない、そういう内面をきちんと見つめ直すことを、念仏生活・聞法生活という。(2019年4月)

ひかり あまねく ごはん しろく 〜たねだ さんとうか〜

光 あまねく 御飯 白く 〜種田山頭火〜 2019年1月

漂泊の俳人・種田山頭火の句である。 この句は「空たかくべんたういただく」という句に添えられてある。ひんやりとした秋晴れの青空に白いご飯がキラキラと輝いている様子が目に浮かぶ、心地よい句である。

当時は大正時代、とても便利とはいえぬその旅中ではつらい心境をうたった句も多い。だのにこの句は実に慈愛と光に満ちあふれている。なぜか。

おそらくこのとき、彼は米粒を作った人、ご飯を炊いた人、弁当を持たせてくれた人、そして弁当をたべようとしているこの自分が「大きないとなみの一部である」と気付かされたのだ。温かな陽の光に包まれ、「一人であっても孤独ではない」と感得したのだろう。

今や少子高齢化と晩婚化で単独世帯は増加の一途で総人口の3割を占めるという。しかし、思えば高度経済成長こそが幻想だったのだ。一人では生きられないくせに、わざわざ寂しさを呼び寄せてきたのが近代史ではないか。

今も光はあまねく私たちを照らしている、今日も食卓にはどこかの誰かが用意してくださった食材が並ぶ。年頭所感、私につながるいとなみに手を合わせたいものだ。(2019年1月)