掲示板のことば・2018年

あとから くるもののために たはたをたがやし たねをよういしておくのだ やまを かわを うみを きれいにしておくのだ 〜さかむらしんみん〜

あとから来る者のために、田畑を耕し種を用意しておくのだ。山を川を海を、きれいにしておくのだ。 〜 坂村真民〜 2018年10月

私が私であるために驚くほど多くのものが必要である。名や顔、声といった特徴や、父母から受け継いだ膨大な遺伝情報…良し悪しによらず、生まれる前から、今に至るまでのすべてが私の「背景」すなわち「縁」となる。

かつて林業の方からきいたことがある。「我々は自分が育てた木を伐採し好き勝手に売っているわけではない。先代、先先代が大切に育ててきた木を引き継いで育てあげ、ふさわしい頃合いを見定めて伐採し生計をたてている」と。だから「伐採するばかりではなく、次の世代に引き継ぐため、いま苗を植え大切に育て続けなければならない」とも。まさに自らの背景を知り、その背景をつなぐ、とうとい声だった。

私たちが日頃触れるものすべては、誰かが考え出し、作り上げ、改良し続けて伝わってきたもので、私たちは先人の礎の上にどっかとあぐらをかいているだけのこと。私につながるさまざまな背景を憶い、大切なことと受け止めることで、ようやく「あとから来る者のために」何ができるか考え、生きようと前向きになる。それが人生の豊かさと未来を創ることにつながる。(2018年10月)

にんげんは ねんぶつにおいて にんげんとなるのである 〜やすだりじん〜

人間は、念仏において人間となるのである 〜安田理深〜 2018年7月

ある時「カエルの合唱みたいに念仏となえておってはアカン、そこに信心を得んとアカン」と言われた。はぁそうですか…すると、私はいつ念仏を称える資格を得るのやら。もしかすると一生称えられんなぁ、と思った次第。

念仏は誰が見てもわかりやすい姿だが、さて信心とは何か。「私が信心を得た」と誰が言い切れるのか。そりゃ長い人生、これが信心かと感動することはあるかもしれない。だがその体験をはるかに超える感動がまだこれからあるかもしれないし、またはすぐ日常に埋没して忘れてしまうのが私たちだ。

仏教の人間観では、人間が「煩悩具足」である以上、実はどこまでめくって見ても煩悩しかないという。そんなお互いが「信心を得る」だなんて傲慢にすぎない。それこそ仏の智慧への疑い、つまり仏智疑惑の重罪ではないか。

親鸞聖人は「真実の信心を得た人は必ずお念仏を申す。でもお念仏を申すことで必ずしも信心が具わったとはいえない(取意)」と仰っておられる。

念仏によって信心を問い、自らを問う。それはただ単に姿かたちが人間であるだけではない、真の人間らしくあるための歩みの始まりなのだ。(2018年7月)

われわれは あとずさり しながら みらいにはいっていくのです 〜ポール ヴァレリー〜

われわれは、後ずさりしながら未来へ入っていくのです 〜ポール・ヴァレリー〜 2018年5月

「因果」とは、原因と結果の関係をいう。たとえば朝顔のタネ(因)を植えれば朝顔が咲く(果)というように。

とはいえ因果だけでは世の中は動かせない。そこにタネを実らせる力、つまり土や水や空気、気温、日光、肥料、愛情…数えきれない要素が必要になる。これを「縁」という。だから仏教は「縁起の道理」なのだ。ただし、縁は人間では数えきれない。それはたまたま大雨が降らなかった、たまたま害虫が少なかった、などの不確実な要素もすべて縁とカウントできるからだ。縁は無限の要素であり、広がりである。

ゆえに正しい仏教の立場は「未来はわからない」という。因から果は見渡せないのだ。だのに私たちは「友引に葬儀をあげれば(因)」「人が死ぬ(果)」などと虚しい予想を立てる。これを迷(めい)という。また、「こうすれば(因)」「こうなるにちがいない(果)」とこれまた虚しい予想をたてる。これを惑(わく)という。

ヴァレリーのいうように、我々は後ずさりしながら未来に入るしかない。ただ後ろ向きである以上、今(果)に、至り来った過去(因)を見つめる歩みともいえる。そこからこそ、「縁のありがたさ」が感得されるのではないか。(2018年5月)

にんげんは なにかをえようとして ちまなこになっているが えることよりも じゃまになるものをすてることが だいじではないか 〜なかのりょうしゅん〜

人間は何かを得ようとして 血まなこになっているが、得ることよりも 邪魔になるものを捨てることが大事ではないか 〜仲野良俊〜 2018年4月

「断捨離」という整理法が以前から話題になっている。試しに自宅と職場で正月から断捨離に励んでみたところ、すこぶる業務効率がよい。迷うことなく必要なものが見つかる。イライラする苦しみが少なくなり、忘れ物や失くし物が減った(気がする)。

「苦しみの解決」は人生の課題だ。釈尊は「一切皆苦」と仰ったが、どれもこれも思い通りにならないことばかり。その苦しみの解決のため、我々は人より多く学び、多く得ようと競争する。あるいはモノや思想を集めて自身を守り固める。これらを「知惠」といい、仏教では「智慧」と区別する。

「惠」は糸車に通じ、この身に巻きつけることを表す。かたや「慧」は箒(ほうき)に通じ、積もり積もった知恵をいったん横へ掃き寄せ、どけてみて、本当に大事なことに向き合うことを勧めるのだ。

「断捨離」は、やましたひでこ氏の登録商標だそうだが、もとはヨガ(瑜伽行派・ゆがぎょうは・インド大乗仏教の流派)の思想体系の一部ともいう。「得る」ことばかりに執着してきた私たちが、「捨てる」ことで「得る」以上の何かに出遇う。まさに仏教がめざすところではないか。仏教思想が最近の流行の根底にあることをうれしく思う。(2018年4月)