掲示板のことば・2015年

みは われである こころは われにあらず 〜 のだ ふうせつ 〜

身は我である 心は我にあらず〜野田風雪〜 2015年12月

かつて作家の高史明氏のところに子どもがたずねてきて「死にたい」と言ったそうだ。おそらく普通なら「やめておけ」とか「親が悲しむから」などと引き留めるであろうところを、高氏は「死にたいのはどこか」と逆に問い返した。言われた子どもはきょとんとしている。続けて「死にたいのはここか」と頭を指すと子どもはあたりまえじゃないかとばかりに肯いたという。

私たちは心で考え、心で悩み、心で絶望する。時には心で自分を見限ってしまうが、果たして心は私自身の全てであろうか。

自殺を決意したある女性が死ぬ前に髪を切り、爪を切って身だしなみを整えたが、その時には踏み切れず、さらに数日悩んだ。やはり死のうと心に決めて睡眠薬を手にしたとき、爪が伸びていることに気付いたという。「私が死のうとしているのに、身体は生きよう生きようとしている」。身体は心のように前もって絶望しない。そして生命が日々全力で私全体を支えてくれていることを教えてくれる。心がそのことを忘れていてもだ。これこそ「他力」である。

高史明氏は子どもに言ったそうだ。「頭が死ねば頭だけが死ぬか。手も足も死ぬんだ。許しは得たのか。特に足の裏はこれまで君の全存在を何も言わずに支えてきてくれたじゃないか。足の裏には足の裏の智慧がある。その声が聞こえるまで歩きなさい。人生とはそういうものだ」と。 (2015年12月)

たりきのしんじん うるひとを うやまいおおきによろこべば すなわち わが しんぬぞと きょうしゅせそんは ほめたまう〜 しんらんしょうにん ごわさん 〜

他力の信心うるひとを うやまいおおおきに よろこべば すなわち わが 親友ぞと 教主世尊は ほめたまう〜親鸞聖人御和讃〜 2015年11月

「盲亀浮木(もうきふぼく)」という譬え話がある。目の見えない亀が大海に棲んでいてまれに息継ぎのために海面に顔を出す。そこへたまたま一本の浮木が流れてきて、偶然にも木に開いていた穴に亀が顔を突っこむ…つまり、途方もなく低い確立の話だ。何の譬えかというと、「私たちが仏教に出遇うタイミング」だという。自分自身が見えておらず、正しく生きられないばかりか、時に仏教までも役に立つかどうかと査定する。愚かな、救いようのない生きもの…これは宗祖親鸞聖人の人間観でもある。

一方で宗祖は晩年、「念仏する衆生(人々)は如来とひとしい・同じとみて差し支えがない」とまで仰り、関東の門弟と幾度も手紙を交わしておられる。罪深く迷える衆生が、どうして全てを悟られた如来様と等しいというのだろう。

「真実からは限りなく遠い衆生でも、念仏によって本願の伝統の一翼を担うことになる」これが宗祖の結論である。全ての人が本願に遇って欲しいという釈尊の願い、それは確かに念仏者によって受け継がれてきた。だから釈尊は「念仏者は私の親友なのだ」と、敬い喜んで下さる。宗祖は釈尊のその心を深くいただかれた。

ひとつ、勘違いしてほしくないことがある。それは、衆生が念仏で何かを悟ったり偉くなるわけではない。他力の信心が私をして念仏の原動力とまでなり、まだ見ぬ「未来の念仏者」を生みだすきっかけになる。それが尊いのである。 (2015年11月)

てんきのよいひが よろこべるのは あめや ゆきのひが あるからでした〜 あさだ しょうさく 〜

天気のよい日が よろこべるのは 雨や雪の日が あるからでした〜浅田正作〜 2015年10月

時々、何もかも投げ出してしまいたくなるときがある。では本当に投げ出せば真実、楽になれるかというと、多くの人がそれでは人生の現実はなにも変わらないことを知っている。むしろ投げ出してしまいたくなる日々を鬱々と過ごす中で、さっと晴れ間がさすように、私の心を打つ言葉に出遇うものである。

善導大師に「二河譬(二河白道)」という有名な譬え話がある。念仏者が仏法を求めて歩みだすと、火と水の川が目前に現れるという。河には白く細い道が一本あるのみ。渡れば飲み込まれるだろう。周囲は頼る人もなく孤独。後方からは群賊悪獣が迫りくる。さて、進むも戻るも、立ち止まってもおれない絶体絶命の境地…そのとき、川の対岸から弥陀如来が、行者の後ろからは釈尊がともに声をかけ、来い、歩め、と励ましてくださる。やがて念仏者は目前の白道を進み始める…という話である。

この「声」について善導大師は、すでに釈尊が亡くなられて久しい事実に触れながらも「なお教法ありて尋ぬべきに喩う、すなわちこれを声のごとしと喩うるなり」と注釈される。釈尊は居られない。でもその教えは求め尋ねる者にいつでも開かれ、それは声のように確かに届くのだと。

雨や雪の日がこれから多くなる。しかし仏法を心に戴けば、人生の曇りもただ悲しむだけではなく、たとえばたまの小春日和を喜べるように、私を生かす言葉に出遇い、喜べる縁となるのだろう。 (2015年10月)

なむしゃかじゃ しゃばじゃ じごくじゃ くじゃ らくじゃ どうじゃこうじゃと いうがおろかじゃ 〜いっきゅう そうじゅん〜

南無釈迦じゃ 娑婆じゃ 地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃと いうが 愚かじゃ〜一休宗純〜 2015年9月

巷に「評論家」があふれている。他人のことを分析し、さもわかったかのように決めつけ、済ませてしまう人たちのことだ。こういう輩は「正義」を重んじる。なぜなら、自分の側にに正義がなければ相手を分析することも、決めつけ、レッテルを貼ることも出来ないからだ。

しかし、悪のレッテルを貼られた側の気持ちはどうだろう。正義を片手に切りつけてくる相手の姿は正義とはほど遠く、暴力=悪にしか見えないのではないか。

切りつけられた側はその暴力から身を守るために何をするだろう…往々にして相対する「正義」の主張である。実は「正義」が世の中に蔓延すればするほど、あちこちで争いだらけになる。なんという皮肉。人間は、そうした自己矛盾に気がつけない。

親鸞聖人の教えは「人間がなし得る正義の見直し」であると言える。『善といえども、それを誇れば悪となり、悪を悪とほんとうに感ずれば善と転ぜしめていただく(曽我量深)』。ゆえに親鸞の精神とは歎異(=異なるを歎く)である。それは相手をばっさり「異」と切りすててしまう前に、自分こそ「異」ではないか、人を切り捨てる存在ではないか。と、逃げずに見つめなおすという崇高な精神である。

さて、私たちが日ごろ振りかざす正義・善とはいったい何だろう。「どうじゃこうじゃ」と相手を安直に切りすてる愚業悪業の繰り返しかもしれない。「賢ぶるなよ」と一休禅師は笑ってみておられる。 (2015年9月)

ここに ひとあり ゆるされて いきる 〜おざわ みちお〜

ここに 人在り 恕されて 生きる 〜小沢道雄〜 2015年8月

「妙好人」、因幡の源左に、とても有名なエピソードがある。

京都からはるばる高名な講師が来たが、源左は時間に遅れてしまった。そこでせめて肩でも揉ませてもらいながら、お話を聞きたいと申し出た。講師は肩をもんでもらいながら「年が寄ると気が短くなってよく腹が立つようになるものだが、なんでも堪忍して、こらえて暮らさねばならぬもの」と、講義の概要を話したところ、源左は「おらは堪忍してもらってばっかりなので、自分からする堪忍がないだがやあ」といい、それを聞いた講師は驚いて姿勢をただしたという話だ。

人間、他者を赦(ゆる)して生きるべし、という考え方は一見わかりやすい。しかし私たちはどれほど気づかず多くの人に迷惑をかけていることか。それを忘れて生きているところに苦しみは生まれる。源左はそれをひと言でいい当てたのである。時折見かける「人に迷惑をかけたくない・かけたことがない」と言い切れる人は、「お気の毒さま」というよりほかはない。

さて、禅僧・小沢道雄氏はシベリア抑留で両足を切断、その後、紆余曲折を経ながらこのエピソードに出遇い、冒頭の言葉を記した(「本日ただいま誕生」より)。人は赦して生きているのではなく、恕されて生きている。この視点を持てると持てないとでは人生の幅が大きく異なる。仏の光に出遇うとは、そうした日常の何でもない意識に光が届くということである。そこに気づけることを奇跡といい、あるいは幸せというのではないか。(2015年8月)

あたえたら だまり うけたら かたれ

与えたら 黙り 受けたら 語れ 2015年7月

自らを省みるべき言葉である。私はどうだろう。他者に何かを与えたら、そのことを沈黙できるだろうか。また、他者から何かを受けたとき、それを素直に喜びとして広く語れるだろうか。

むしろ与えたら、与えたことにこだわり、それを誇り、誰かに声高に伝えたがって、与えた現実にとらわれて生きてはいないだろうか。逆もそうである。誰かから何かを戴いたときこそ喜ぶけれど、日が経つにつれ、それを忘れ、時には当たり前とし、それだけでは飽き足らず、「我こそ受けるにふさわしい」とすら考え、沈黙して生きてはいないだろうか。

それが「我執」である。我執は恐ろしい。自分が知らないうちにそれを羽織り着飾り、自分にとって、全くふさわしくない高みに自分を運んでしまう。そして、そのことで結果的にひとり苦しむこととなる。誰が苦しめているわけでもなく、自分が執着していることで勝手に苦しんでいるのである。

私が本当に為すべきことは、他者に与えるご縁をもって、そのことに執われることのなきよう沈黙し、また自分自身を見るときは、他者から日々与えられているという事実を素直に見つめ、感謝の言葉にして生きることだ。そしてその事実に自然と手が合わせられているかを問うことだ。できていると思い込んで実はできていないのだから。

ならばせめて、形から入ろう。手を合わせ、娑婆の何ものにも毒されない言葉「南無阿弥陀仏」を口に称えて。 (2015年7月)

もんぽうは しのじゅんび ではなく せいの かて である

聞法は死の準備ではなく 生の糧である 2015年6月

自分はまだ若いから、お寺には行かなくてよい、必要がない、と思っている人がいる。では年を取ったらきちんと聞くかというと、蓮如上人はこうおっしゃる。「としよれば、行歩(ぎょうぶ)もかなわず、ねむたくもあるなり」。そして、「わかきとき、仏法はたしなめ」と。つまり最近の話ではない。昔からそうだったということだ。

仏教とは若く輝かしい年代も、人生の辛苦を十分にかみしめた世代であっても、ひとしく「本願」という真の眼差しをもって人間の実相を学ぶことができる「哲学」である。

だから簡単な話ばかりではない。難しい考え方や用語も沢山ある。それはなぜかといえば「人間一人ひとりの生き方そのものが複雑」だから。仏教が人間に寄り添っているうちにどうしても難しくなってしまった。だから、理屈としては、年老いて複雑な思考や、用語が覚えられなくなってから聞法をはじめても間に合わない。手遅れなのだ。

ただ、仏教が大切にしているのは記憶力でも思考能力でもない。それら人間の「役に立つ」意識を超越して、真実に出遇っていただきたいのである。それには理屈の積み重ねはいらない。何が必要かと言えばただひとつ、理屈抜きの「念仏」である。しかし念仏がどうも素直に受け取れないのであって、仏法を説くために理屈が必要になってくる。ここで最初に戻って、年寄ればその理屈が頭に入りづらい…さてさてこれもまた、人間の実相なのだが。

だから繰り返し聞法するしかない。若いも年寄りもなく「今」このときから。 (2015年6月)

なにものが くるしきことと とうならば ひとをへだつる こころとこたえよ 〜 りょうかん 〜

なにものが 苦しきことと 問うならば 人をへだつる 心と答えよ〜良寛〜 2015年5月

子ども好きで知られる良寛。それは晩年のエピソードで、若い頃のことはあまり分かっていない。それは彼が住むところや組織にあまりこだわらなかったからだともいう。その一方で彼にはこだわりの一面も持っていた。それは「書」である。私もかつて師から「書は建築である」と教えられたが、一本の線、一つの点を打ち損ねても全体が崩れてしまう。そこにこだわりを持ち続けた良寛は書の達人である。

さて、現代社会のこだわりは、すべての面倒を取り去ることにあった。そしてあらゆるものがサービスに換算され、生きてゆける時代となった。誰の助けも必要とせず、誰かと会話をするため、出かける必要もない。そうした個を中心とする便利な世界ができあがった。そしてその反面で、現代人は関係性に飢えている。切り捨てた地域社会の姿を、どこかで懐かしく感じている。テレビの特集で山村に生きる人が紹介されるのもその現れだろうか。切り捨ててみたり、懐かしんだり。近代の人間はそうしてふらふら生きてきた。

古いドラマで紹介された話に「人という字は支え合って存在する」とあるが、まさにそのとおりだ。存在だけではない。「面倒な関わり」と「人の温もり」は紙一重。どちらが欠けても成立しない。両方が大切であるのに、私たちはどうしていつも、その一方だけを選び取ろうとするのだろう。苦しみは、外から来るのではなく、「ひとをへだつる」自身の生きる姿勢にあるようだ。良寛のようにこだわりの両側面を見つめてゆけないものか。 (2015年5月)

むずかしいものは おしえのがわに あるのでなくて かえって わたしたちのがわに ある 〜なかの りょうしゅん〜


難しいものは 教えの側にあるのでなくて かえって 私たちの側にある〜仲野良俊〜 2015年4月

よく「真宗の教えは難しい」と言われる。しかし教えはいたってシンプルだ。「本願を信じ、念仏申さば仏になる(歎異抄)」、これだけである。「難しい」感想はどうしてなのか。

そもそも念仏は「いつでも、どこでも、誰でも実践できる行」であって、合掌と称名、つまり手を合わせ、口に称えることが基本だ。しかも、その回数や姿勢には、はっきりとした決まりがない。色んな事情で合掌や称名が叶わないならば、できる範囲でも構わないという。「易行(いぎょう)」と言われるように、やさしい行の究極が「念仏行」である。

しかし「そんな簡単な行で果たして役に立つのか」という、人間の業がここで邪魔をする。これが「極難信法(ごくなんしんのほう〜称讃浄土経)」と言われるゆえんである。念仏を疑う業(ごう)はひとそれぞれである。1億人いれば1億通りの業があることだろう。その業が本願を信ずることを妨げている。つまり念仏行は、行ずることは簡単でも、人がそれを説く教えをなかなか信じられないために、結果的に「難しい」と言われてしまう。

仲野良俊師はこの言葉の前にこうも言われる「教えは平易であり簡明であっても、それが複雑な、深く暗い私たちを掘り下げてくると、そこに難解なものが自然に生まれてくるのである」と。厄介で頑固な私たち人間。その姿に寄り添うために、先人はいろんな言葉を尽くしてくださってきた。尽くした言葉の数だけ、そこに本願と人の歴史がある。

教えを難しくし、妨げているのは私たちだった。なんと深い業を生きているのか。 (2015年4月)

ねんぶつしても くえんかもしれんが ねんぶつせんと たべたもんが むだになるぞ

念仏しても 食えんかもしれんが 念仏せんと 食べたもんが 無駄になるぞ 2015年3月

ある老母が息子に発した言葉であるという。

この前日に、息子は母に対し「念仏しても食えんじゃないか」と言い放った。母は息子のその言葉に一晩思い悩んだ末、この言葉を絞り出すように訴えたそうだ。

私たちはこの息子の気持ちを否定できない。念仏しても何の役に立つというのか。答えられる大人は少ないだろう。念仏がはたして飯のタネになるのか。実はその疑問こそ愚かなのだが、ついそう問いたくなるほど、念仏は一見、か弱く頼りないように感じる。

しかし老母の言葉に胸を打たれるのもまた事実ではないだろうか。「食べたもんが無駄になる」とは、つまり自らの人生が空しく過ぎてしまうことだ。

誰しもが一度きりの人生を大切に充実して生きたいと思いつつも、日々の出来事にとらわれ、ふと「このままでいいのか」という漠然とした不安、不可解な思いにさいなまれるもの。「無駄になる」と言われれば、その重みにどきりとしてしまう。

さてどうだろう。考え方の問題かもしれないが、人生の不安が漠然としているのならば、人生の安心もまた漠然としていてももよいではないか、と思うのだ。念仏がわかる、わからない以前に、そもそも日頃の不安の元が何かもわからぬくせに、安心ばかりは自分に解りやすい、安易なものを求める姿勢に、現代人の苦悩の源があるように思う。

念仏は理屈ではない。解ってから称えるつもりなら、理解する前に人生が終わってしまうだろう。(2015年3月)

じぶんが たいせつである だから たのひとを たいせつにする 〜なかの りょうしゅん〜

自分が 大切である だから 他の人を 大切にする〜仲野良俊〜 2015年2月

「自分が大切」なんて言い切られてしまうと、どきっとする。いや、そんな利己的ではいけないじゃないか、と反論したくなる。

でも省みればそれが正直なところで、私たちは所詮「自分が大切」。金も健康も名誉も家族も、自分抜きには考えられない。本当に大切で尊いものを「本尊」というが、私たちは実は自分を本尊にして生きている。だから仏さまが云々…と言われてもそうそう信じられない。

ところが仏教はそれでいいのである。「信じられない」ところから仏教はスタートする。親鸞聖人の学びもそうだった。

だからいっそ、自分とやらを考えてみよう。自分とは一体何か。…考えれば考えるほど、見えてくるものがある。それは「世界」である。どれほど自分が大切でも、ひとりではいられない。衣食住のどれをとっても、自分がひとりで作りあげたわけじゃない。…自分を真剣に考えると、逆に世界の側から開かれてくる。これが仏教の入り口である。そして自分が自分を大切に思うように、すべての生きとし生けるものがそれぞれ自らを大切にしていると共感できる。そういう広い視点に気づかされる。仏のまなざしである。

本当に尊いものとは、自分につながるすべての存在なのだ。良いも悪いも含めてすべて。それを姿に表せば、南無阿弥陀仏となる。浄土真宗の「本尊」である。

本尊を見失い、他を大切にできない人間が、巡り巡って自分を苦しめつつ、傷を深めあっている。現代はそんな時代に見える。 (2015年2月)

どうこう みょうろう ちょうぜつ せり〜 しんらん しょうにん ごわさん より

道光明朗 超絶せり〜親鸞聖人御和讃より〜 2015年1月

年のはじめ、いつものことだが「今年こそ」と我がゆく道を思い、目標を立てる人は多いと思う。

目標とはそもそも自分が居る位置と向かう方向がはっきりしてこそ成り立つ。どこに立ちどちらに向かうか。それが目標である。

しかし人生全体を見渡してみればどうだろう。よくよく省みれば、生まれた日も、名前も、そして家族も、どれも自分で選んできたわけではない。授かり物である。またこの先、死にゆく日も、場所も、その縁とて、知り得ようがない。つまり、私たちは常にどこに立っているか、どこに行くのか知らないまま今を生きている。日々、年々、細かな目標は立てられても、人生を貫く目線がない。要するに娑婆に立ち、娑婆にあるものを利用していても、ほんとうの意味で私たちは心底明るくはなり得ないということである。

親鸞聖人が曇鸞大師よりいただかれた言葉「道光明朗」すなわち明るく光り輝く道とは、人生の方向が明らかとなる仏道である。「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」とは孔子の言葉であるが、どちらに向かい、どちらに歩み出すかがはっきりすれば、もう後はたとえその日のうちに命を終えることがあっても恐くないという。逆から言えば、私たちはそれほどまでに行く道を知らない。

さて、私を迷わす事物に惑わされず、正しい道、正しい方向に一歩を踏み出せるかどうか。そもそも正しいとは何か。一年の計はそこにある。 (2015年1月)