掲示板のことば・2014年

にんげんは しんじんに たたなければ けっきょくは かねか けんりょくに たついがい ないのです〜くるべしんゆう〜

人間は信心に立たなければ 結局は金か権力に立つ以外ないのです 〜訓覇信雄〜 2014年12月

この年末の忙しいときに、選挙である。街頭では騒音と共に候補者が正義と自説を展開する。しかし詮ずるところどの候補者も言っていることはどれも同じ。「私が当選すれば、世の中をこのように一番よくできる」だから「私に票を入れてくれ」。

ちなみに仏教的には「私がこうすれば、こうなる」と考えるのは間違いで、それを従因向果という。因から果を見る姿勢である。正しくは従果向因、すなわち「今、私があるの(果)は、因をたずねればこういうことであった」というように、果から因をたずねるものである。因果という言葉を弄び、未来を思い描くことは無駄である。なぜならその間にはたらく無数の縁を決してはかり知ることができないからだ。従因向果とは友引の葬儀と同じで、ありもしない結論をもっともらしく導き出す。人智と迷信とはまさに紙一重だ。

訓覇信雄氏はいう。「人間は、ただ生まれただけでは、ほんとうの人間にはなれません。やはりほんとうの人間になるためには、仏法を聞かなければいけないのです」。今回も金と権力を美辞麗句で奪い合う罵り合戦が幅をきかせる。訓覇氏はこうも言う。「わたしは偽物だと言う人は、ほんものなのです。真似して言うのはだめですが、ほんとうに私は偽物だったと言える人は、ほんものになった証拠です。偽物とも知らずに、うかうかして何十年もきて、平気で一人前の顔をしているのを偽物というのです」。

人の振り見て我が振り直せ。そう考えると選挙もまあ、悪くない。(2014年12月)

だいじなものが てにはいらないのは いらないものを もちすぎているのです 〜 なかのりょうしゅん〜

大事なものが手に入らないのは いらないものを持ちすぎているのです 〜仲野良俊〜 2014年11月

ふと思いたち、部屋の掃除をした。それも徹底的に。少し前に話題となった「断捨離」を決行したわけだ。そうしてみてあらためて、いかに多くの物に囲まれ、物に振り回されて生活していたか気づかされた。ひとつひとつの物はすべてその時の思い出である。だから捨てがたい。だが、些細なものでも積もれば山となり、自らを煩わせる。一説に人間は実に五万通りのにおいをかぎ分けることができ、すべて記憶と直結しているという。人生の時を過ごせば記憶と共に物に囲まれ、物に埋もれてゆくのは自然のなりゆきか。

仏教が説く人間の苦しみ、四苦八苦のひとつに「五蘊盛苦」という苦しみがある。五蘊とは、人間のもつ五つの基本的な働き、つまり色(身体とそれを維持するすべてのもの)・受(それを自らの中でうけとめる機能)・想(そこから何かをイメージする機能)・行(そのイメージを行動にうつす機能)・識(記憶そのもの)であるが、それが盛苦、すなわち盛んであることに苦しみが伴うというのだ。

誰もが持っている五つの要素は、それが盛んであり、満たされている状態であるからこそ執着が生まれる。物や事に執着すれば、他のことに目が配れなくなる…ここに苦が始まる。釈尊も宗祖もそうであったように、出家といって一旦、物と情報を手放すことで、自分を見つめ直す旅は始まるのだろう。

仏教は何も珍しいことを教えようとしているのではない。日常に埋もれた「あたりまえ」にスポットを当ててくれる。 (2014年11月)

じょうどは さいがんにあれども じょうどのもんは とうがんにある 〜 そがりょうじん 〜

浄土は西岸にあれども 浄土の門は東岸にある 〜曽我量深〜 2014年10月

仏教の一般的なイメージは「断惑証理」。つまりあらゆる煩悩を断ち、努力を重ねさとりを得る。そのイメージが強すぎるためか、聴聞を重ねた人であっても口を揃えて「まだまだ」という。「右から聞いても左から抜けます、アカンことです」と。つまり努力が足りないと自分で言うのだ。

ではいったいどこまで仏法修行すればいいというのか。実は仏教各派、明確に答えられる人はいない。こうして私たちは仏教に対し努力を永遠に積み重ねる印象を持ち、何が救いなのかすら見失ってきたのかもしれない。

浄土真宗の答えははっきりしている。「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき(歎異抄)」、その“とき”である。「たかが念仏じゃないか」といわれそうだが、ここに親鸞聖人の思想がある。

役に立つのか立たぬのか、意味があるのかないのかと、あれこれ思案をめぐらせど、結局一歩も踏み出せていないのが人間ではないか。まず一歩踏み出せるのかどうか。浄土真宗はその一点を問う。あとはおまかせ。阿弥陀仏が救ってくださる。なぜなら御和讃に「今に十劫を経たまえり」とあるように、“たかが念仏”ひとつ満足に声にもだせない頑固な私たちを、法蔵菩薩が待ち続けてくださっているのだから。

たとえ遠く西の岸にあろうとも、浄土の入り口は東の岸、つまり私たちの人生に開かれている。「念仏を申せるか」という形をもって。(2014年10月)

ひととちがった かんがえをもつことは いっこうにかまわないさ でも そのかんがえを むりやり たのひとに おしつけては いけないな 〜 すなふきん 〜

人と違った考えを持つことは一向にかまわないさ でも その考えを無理やり他の人に押しつけては いけないな 〜スナフキン〜 2014年9月

子どもの頃テレビで見た「ムーミン」が、いま名言集として注目されている。あまり記憶にないが、こんな大切なことを教えてくれていたのかと思う。

人はひとりひとり考え方が異なるもの。どれほど同じ空間と境遇を経験しても、少しずつ受け取り方が変わるのだ。だが、そのことが我慢ならない者がいる。それは他でもない。世界中に存在する「ひとりひとり」である。

考え方が異なることは、すなわち否定の始まりである。「私」と主張するところに、「他者」が生まれ、仲間を作れば仲間はずれが生まれる。私たちの行為は全て、自と他の関係だが、一方で協力しないと生きられない。人間の持つ矛盾である。この矛盾を解決しようと、先人はいろんな方法を取ってきた。議論・和解・法律・裁判…そして戦争…。

共に生きるためには、相手の違いを受け入れる必要があるが、人類の歴史とは、違いを糾すか遠ざけるだけを繰りかえし、結局は傷つけ合ってきただけではないだろうか。

その解決法は一つしかない。それは「歎異」である。それは単純に異なることを歎くという意味に留まらない。親鸞の弟子・唯円が師から学んだ歎異とは、歎異抄という有名な書物に結実する。それは「常にあやまちを犯すであろう私を問いつつ、他者のあやまちにたずねる」生き方だ。そこに押しつけは生まれない。違いはそのままに尊重され、そして全て南無阿弥陀仏の世界となる。 (2014年9月)

たによって じにたたねば きかざった ゆうれい 〜 ひらの おさむ 〜

他によって 自に立たねば 着飾った幽霊 〜平野修〜 2014年8月

他力本願。これほど世の中で誤って使われている言葉はないだろう。「他力」こそ浄土真宗の根幹を支える思想なのだが。

一般的に誤用される『他力本願』とは「他人の努力を頼みにし、甘えること」と解釈するようだ。つまり自らの努力(自力)こそが大切で、他人に甘えるべきではないと。その理解は一見判り易いが、決定的に欠けている視点がある。それは「個人の努力だけで全ては動いているのか」ということだ。

人は決して自力だけでは生きられないと、親鸞聖人は気づかれた。努力はたしかに大切だが、努力を尽くさせてくれたものは何だろう。それは私の背景やそこに関わる出来事、全てのつながりではないか。どこまでも個に立ってしまう私の視点では感知できようのない広大な世界・出来事がつながりあい、めぐりめぐって私を根本から支えてくれていた。そう気づいたとき、自力とはなんと狭い視野なのかと報(しら)される。個人にとってはどれほど必死の努力であっても、それを成就させた因、すなわち仏の眼からすれば些細なことに過ぎない。私を超えているからこそ「他」力なのだ。他力を知らないことは、そういう広い視野を持っていないということでもある。

自ら力を尽くしても、それに固執もせず、主張もしない。むしろその背景を感じ、不可思議のご縁と頂戴する。それが他力本願である。南無阿弥陀仏の生活である。

かたや自力の世界しか知らない人は、主張ばかりで足元を見ない。まるで着飾った幽霊のようだと平野氏は押さえられる。 (2014年8月)

けいべつ するものは けいべつ され おがむ ものは おがまれる

軽蔑するものは軽蔑され 拝むものは拝まれる 2014年7月

テレビや新聞を見ていると、毎日のように誰かの罪が報じられる。中には些細な失敗でも、まるで大罪であるかのように報じている事がある。大小はともかくそれを他人事として見る私たちは、いかにも「批評家」である。

考えてみる必要があるようだ。誰もが大なり小なり失敗を犯すことを。そして人生を歩む中、何の失敗もしない人などいない事実を。安易に他者を非難できる人間は、単純に自分のことを棚にあげているだけで、人類は常にそうした「ちえ」の闇の真っ只中にある。

「ちえ」には2種類あるという。人間の知恵と仏の智慧である。人間の知恵は積み上げることで成り立つが、仏の智慧は一瞬のきらめきである。さらに、人間の知恵は積み上げただけでは飽きたらず、その上にあぐらをかき、他者を見下すが、仏の智慧は〝自他共に〟常に足下を照らす。知恵にうぬぼれる人は、知恵によって自ら闇を作りゆく。智慧に目覚めた人は、他者を安易に批評する前に、自らの足下を照らし、問う。

真宗(浄土真宗)には「歎異」という精神がある。私と異なる他者を単に歎くのではない、もっと大きな視点、それは「誰もが仏智に背いて生きている」ことを〝自他共に〟に歎くのだ。かつて曽我量深師は歎異を「真宗再興の精神」と誉め讃えた。

安易に切り捨て、省みない私の心に気づかなければならない。それは、いつか安易に切り捨てられる番を待つ私だから。 (2014年7月)

われわれは たにんによって くるしめられるのえは ない 〜きよさわ まんし〜

我々は他人によって苦しめられるのではない〜清沢満之〜 2014年6月

生きているといろんな出来事に遇う。時には周囲から思いも寄らぬ苦しみや悲しみを与えられ、まるで自分が自分でなくなってしまうような辛さを感じることがある。

しかし「この苦しみは外から来たものではない」と明治の偉人・清沢満之はいうのだ。

かつて人間を氷の塊にたとえた人がいる。氷はそのままにしておけば溶ける。それはあたかも自分が壊されてゆく感覚に似ている。壊されたくないから、どうするか。冷凍庫に隠れようとする。つまり外界と遮断し、ひきこもることで孤独な安心を得ようとする。あるいは、風が吹くから溶けるに違いないと、風を防ぐ壁を立てようとする。それが人間の姿なのだと。

我々は、老いや病だけではなく、生きることや、果ては死というものに翻弄されてどうしても壊れてゆく。これは自然の法則である。どうして翻弄されるのだろう。それは「我」にしがみついているからだ。真実の教えはそこから離れなさいと教える。そう聞けば、離れることと死は同一なのかと受け止める人がいる。その単純さが人間のありさまなのだ。そんなお粗末な思考回路と、頼りにならない我が身、そんなものに頼って、人生の根本を流れる無限の大悲を遠ざけてきた。だから私たちは苦しむべくして苦しむのである。誰が運んできたわけでもない、立っておれんところに立っている私の眼が曇っていたのだ。

仏はそんな私たちを、しずかにほほえんで見つめてくださる。(2014年6月)

おねんぶつ が こぼれて やまぬ 〜しまもと くにこ〜

お念仏が こぼれてやまぬ 〜島本邦子〜 2014年5月

「いただきます」島本邦子

カニを食べた

カニの一生を食べてしもうた

カニにもろうた私の今日の いのち

芋を食べた

芋の一生を食べてしもうた

芋にもろうた今日の いのち

そう思ったら

お念仏が こぼれてやまぬ

私たちは、私のいのちしか見えていない。少し頑張っても、せいぜい、自分の家族や友人のいのちまで、ではないか。

私たちは、私の立ち位置しか実感していない。その大地は遠く離れた誰かと繋がっているというのに。そうやって狭い生きかたをして、たとえばこれまでの一生を支えてくれてきた、足の裏のありがたさなんて、すっかり忘れて生きている。

「目足(もくそく)」という言葉がある。故平野修師は「真宗といわれる宗教は、目と足に関係する宗教」という。私たちの目とは、なんと近くしか見えていないのだろう。私たちの足の裏の感覚はなんと鈍感なのだろう。それは目や足が悪いのではない。「私」が鈍感であったのだ。ああそうだ、お粗末であったと気づいたとき、日頃の詫びの言葉では到底尽くせない。まさに「お念仏がこぼれてやまぬ」のだ。 (2014年5月)

いかさるる よろこび におう はるの うめ〜 なかむら ひさこ〜

生かさるる よろこびにおう 春の梅 〜中村久子〜 2014年4月

「生きている」という実感とは心身ともに健康である時に起こる。病に苦しみ、人間関係に疲れ、また悩み事に苛まれているときは、生きている自覚こそあれ、実感はできない。

しかしどんな時でもこの身は私の意識を超えて「生きている」。たとえば寝ているときも、さまざまな事に苦しんでいるときも、脈は休まず打たれ、呼吸はたゆみなく出入している。そのことに気がついたとき、私は私の意思で生きているのではなく、様々な条件が揃うことで、いのちを賜る瞬間を連続していること、そしてその条件がたまたま途絶えずにいることにうなずくことができる。それを先達は「生かされている」と表現された。

幼くして両手両足を失った中村久子氏は、その半生においては耐えがたいような苦労の人生を背負いながら、このような句を遺された。それはたとえどのような境遇にあっても、いのちの願いを常に肌に感じておられたからであろう。

すべて客観的、理論的に展開する現代であるが、その先には断絶の世界しか展開しない。理屈や理論で人間は生きているわけではない。いのちの、そして大地の願いの声に耳を澄ませることが今こそ一人の身の上に望まれている。それを伝えるのが仏教である。過去数千年、そしてこれからも、人間の限界の先に阿弥陀仏の世界は開かれる。 (2014年4月)

じんせいとは そのひ そのひ の こと 〜 かねこだいえい 〜

人生とは その日その日のこと 〜金子大榮〜 2014年3月

春前の寒気に当てられたのか、それともPM2.5とやらの影響か、季節外れのインフルエンザに感染した。子どもの時以来、忘れ去っていた熱と痛みに苛まれ、今更ながら日頃の不摂生を思い知った。

ところで病の間に不思議な経験をした。自分でも驚くほど、急激に物事へのやる気が失せてゆくのを実感したのだ。普通の風邪とは明らかに違い、精神的に浸蝕されるとでも言おうか。痛む身体、動かぬ手足、上下する高熱に辟易し、大げさだが、どこか生きる望みすら失っていったといっても過言ではない。まったくもってあらゆることに興味が湧かず、投げやりな気持ちで寝込んでいた。

完治した今となっては、なぜそんな気持ちになったのか理解できず、従って今は元気なわけだが、人間は、この身、この精神状態のどこをとっても、全て「縁」によって成り立っているのだということを教えてくれた一件かと思う。どんな些細なきっかけで今の自分をひっくり返されるか分からない私たち。わたしの「今」とはそもそも本当に安定した状態なのか。日頃どんなに強がっても、この身一つの不調にかくも脆いのが人間である。「浄土をねがう行人は、病患をえて、ひとえにこれをたのしむ」 (御文・伝通記糅鈔)」とはなかなかいかないものだ。

・不思議と与えられた今日を喜びつつも、その今日の「私」が不変である保障はどこにもない、という事実に思いを馳せねばならぬ。その日その日を丁寧に生きるためにも。 (2014年3月)

せつめいは せつめいである 〜 たかみつ だいせん〜

説明は説迷である 〜高光大船〜 2014年2月

ふとしたことから意見が合わず、言い争いになる…誰もが経験のあることだ。そこで互いにわかりあおうと言葉を尽くす。言葉で生きている以上、そうしなければ相違点は見出せないわけだから当然の行為なのだが、実はそうやって努力するほど、互いの自己弁護となって終わってしまうことも多い。

さて、私たちは「わかる」ということにとても執着する。それは近代文明の基礎をなす考え方が「知性による理解」であるからだ。近代は、わかることを美徳とし、わからないことは愚かであると、知性を何より優先し信頼してきた。新聞に「よくわかる仏教」「よくわかる正信偈」といった文句が並ぶのも、知性を最優先する感覚のあらわれだろう。

だが知性とは、そんなに優先されるべきものなのだろうか。知性の究極がこんにちの世界であるなら、むしろ問題だらけではないか。互いを言葉で傷つけ貶め合い、そして知性の上に絶望し、自らをも見棄ててしまう。そのようなありさまを飛び越えて、「人間の知恵」には限界があることを報せてくださるのが「仏の智慧」である。仏法は私たちの価値観を逆の方向から照らし、見つめ直させてくださる。

先達は仏法に「出遇う」と表現された。それは知性の衣をまとわず、肌身をもって値遇することだ。そこでは「わからなくてもきく」態度が望まれる。親鸞聖人は「南無阿弥陀仏」を勧められた。身をもっていただくべきそのはたらきを、また頭でわかろうとするが故に、わからないのが我々である。 (2014年2月)

これで いいのだ 〜 ばかぼんの ぱぱ 〜

これでいいのだ 〜バカボンのパパ〜 2014年1月

故 赤塚不二夫のが生んだキャラクター「バカボンのパパ」はどんな状況になっても「これでいいのだ」と肯定する。かたや私たちはどうだろう。

あいつはキライ これはダメ あいつは困る

こいつはいい と切り続ける

私はどうも ハサミのようだ(故 平野修師)

の言葉のとおり、事あるごとに否定から入る。世の中を否定することが、さも偉い事であるかのように。

バカボンとは、「薄伽梵」という仏教用語に由来するという。

サンスクリット語のbhagavatという言葉が語源である。徳ある者、煩悩をやぶる者、分別のある者、尊敬を受ける者、栄光ある者…とあまりに多く意味を持つので、あえて翻訳しなかったそうだ。これはお釈迦さまのこと、または仏のことである。親鸞聖人は「十方の無量菩薩衆 徳本うえんためにとて 恭敬をいたし歌嘆す みなひと婆伽婆(薄伽梵に同じ)を帰命せよ」と尊敬の念をこめて讃えておられる。

南無阿弥陀仏は私たちと異なり、ことさらに否定をされない。師兄に教えてもらったことを思い出す。それは子どもがお寺の本尊・阿弥陀如来をみてこういったそうだ。「オッケー、オッケーしてはるなぁ」と。何のことかと思えば、印を結んでいる手を指してのことである。それぞれに意味が与えられている結印だが、意味を知らずともその姿は子どもに充分通じている。「これでいいのだ」。ありがたいことではないか。 (2014年1月)