掲示板のことば・2016年

しゅうきょうもんだいをかんじないということは じこにたいする むせきにんの こくはくである 〜なかの りょうしゅん〜

宗教問題を感じないということは 自己に対する無責任の告白である〜仲野良俊〜 2016年12月

あっというまに十二月だ。しかも年々早く感じられる。おそらく誰もがいま、忙しい毎日を送っていることだろう。しかし、この忙しさの足下にあるものは、またその先にあるものはなんだろう。少し落ち着いて考えてみる必要があるのではないか。

忙しさの足下の根本は「稼がなければ・食わなければ」という問題である。もしその根本問題を無視したらどうなるか「食えなくて、死ぬかもしれない」…。なるほど。しかしその忙しさの先はどうだろう。「食っていてもいずれは死ぬ」のではないか。

年末に死ぬなどと「縁起でもない」という声が聞こえそうだが、本来「縁によって起こる」から「縁起」というのであって、先々のことをあれやこれやと思いはかる言葉ではない。「死の縁無量なり」と言われるように、どこでどんな縁に出遇うか予想がつかないというのが人生の真実である。

だからこそ、忙しい今、わが生きざまにきちんと光をあて、せっかくの人生が空しく過ぎないよう聞き啓くことこそが最重要課題ではないか。宗教とは「むねのおしえ」と読む。真実の教えはごまかしたり先延ばしを決して許してはくれない。

「無宗教」などとうそぶく人間は「人生を捨て、無責任に生きている」に等しい。仏法のことはいそげ、いそげ。(2016年12月)

われらのぜんとは ひかりであり われらのはいごは いのちである 〜そがりょうじん〜

われらの前途は光であり われらの背後は命である〜曽我量深〜 2016年11月

かつて作家の高史明氏のもとに子どもが訪ねてきて「死にたい」と相談した。氏は「やめておけ」、「親が悲しむぞ」といった月並みな説得ではなく、「死にたいのはどこか」と尋ねたという。子どもは意味がわからない。氏は「死にたいと言っているのはここか」と頭を指差した。ようやく子どもは当たり前ではないかという顔をしている。氏は「頭から上が死んだら頭だけが死ぬのか。身体も死ぬのだぞ。身体の声、殊に足の裏の声を聞け」と説いて聞かせたという。

私たちの絶望とはどこで起きているのかといえば、それは「アタマ」である。人はアタマで絶望してアタマで勝手に自分を見捨ててしまう。でもそうして絶望している瞬間にも「カラダ」は生きてくれている。そのことを忘れてはいけない。

きて・動しているから「生活」と呼ぶ。個の意思を超えて、身が生きようとしてくれていることを忘れ、人は活動の範囲で絶望しているにすぎない。

仏典によれば、それは火と水の河に譬えられる。アタマだけで生きようとすれば、その人生はきっと行き詰まるだろう。そのとき仏は対岸から光となって「来い」と呼びかけてくださる。そんな私たちの足下を支えてくれるのは、ちっぽけな個の願いや思いではなく、生きている事実・イノチそのものである。 (2016年11月)

にょらいを しんじられなくても にょらいは けっしてみすてない ということを しんじるのです 〜ふじば としき〜

如来を信じられなくても 如来は決して見捨てないということを信じるのです〜藤場俊基〜 2016年10月

如来のお働きを表す言葉に「摂取不捨」がある。親鸞聖人は御和讃に「十方微塵世界の・念仏の衆生をみそなわし・摂取して捨てざれば・阿弥陀と名づけたてまつる」と謳われる。 どれだけどん底の世界に生きていても、念仏する衆生をみそなわして、摂取して(おさめとって)決して捨てたまわない、それを阿弥陀だと呼ぶのだよ、と。

さて、親鸞聖人はかなり慎重な方だったとみえて、読む人がうっかり違う意味に受け取らないよう、ふりがな(右側)とは逆の左側に「左訓」という注意書きを残してくださっていて、この御和讃の「摂」には、「ものの逃ぐるを追わえとるなり」とある。簡単にいえば「(救いなど)要らん要らんと逃げまわる者とて、追いかけて首根っこを捕まえてくださる」という意味だ。

たとえばこの御和讃、うっかり読んでしまうと「念仏する衆生」が「摂取不捨」なのだと読んでしまわないだろうか。では、「念仏しない衆生」はどうなるというのだろう。捨ててしまうのか。これが人間の「計らい」であり「闇」である。

念仏する衆生を見捨てないのはもちろんのこと、まだ見ぬ念仏者にすら如来は眼差しを向けてくださる。まだか、まだか、と。「みてござる」とはよく言ったものだ。

全ては「待たれている」のだ。 (2016年10月)

しんじんの うむなんか きにするひつようのないせかいを ひらくのが しんじんである 〜ふじば としき〜

信心の有無なんか 気にする必要のない世界を 開くのが信心である〜藤場俊基〜 2016年9月

信心とはいったいなんだろう。

たとえば「私がある物事を頑(かたく)なに信じること」だとするなら、その「信じる」思いのどこかに少しでも少しでも疑いが混じれば、矛盾が生じ、信心とはいえなくなってしまう。だいたい一旦、疑心が生ずれば、それは容易に消せないものでもある。

では「疑いようがないほど強烈な信仰体験をしたのだ」とすれば、それは非常に個人的かつ強固な執着となる。「おまえにはわかるまい」と、実は過去の体験に単に執着しているだけのことを、信心とすり替えて満足しているだけのことである。

親鸞聖人のすごいところは「信心」が勘違いや執着になっていないかを、常に確認されるところにある。

浄土の救いは「誰も排除しない」。阿弥陀如来の救いは阿弥陀を信ずる者だけに開かれているのではない。阿弥陀を疑うものにまで無条件で届けられている。疑う本人が気付いていないだけであって。かたや、人間は常に条件をつけたがる。

もしかすると私たちは信心が「ある」とか「ない」とかで浄土や阿弥陀という広大な存在を自分の小さな器の中に閉じ込めてしまっているのではないか。まことの信心とは、そういうちっぽけな了見を破るはたらきをいう。 (2016年9月)

なつがおわって あきがはじまるのではなく なつのなかに すでにあきがふくまれてあるのだなぁ

夏が終わって秋がはじまるのではなく 夏の中にすでに秋が含まれてあるのだなぁ 2016年8月

ある聞法会で門徒さんが仰った言葉だ。前置きは「昼間は蝉がうるさくても、夜になると秋のように虫の声が聞こえます」であった。一見美しい日本情緒を話しているように見えるが、それだけでは収まらない深さがある。

平素様々な出来事に遭遇するが、それらは突発的に生じているわけではない。物事は起こる前からどこかで繫がっており、起こった後もどこかに繋がっている。

仏教ではときに時間の流れを「去来現」と表現する。通常の私たちの感覚ならば、過去→現在→未来だろうが、過去→未来→現在と並べ替えているわけだ。時間は一見、過去から未来に順当に流れているように見えるが、それは私が抜きになっているわけで、私を通せば「現在ただいまが結果であり、はじまり」である。確かに人生とは過去の積み重ねであるし、そして今の生き方こそがこれからの未来を紡ぐ。

ある師は「過去が救われることが仏教である」と説く。またある師は「仏教の救いとは未来が迎えに来ることだ」と説かれる。そのいずれもが真実である。両者が接する「現在ただいま」に全ては含まれる。今を懸命に聞きひらく事が私たちのあるべき道なのだ。今を見つめて生きているか。ただ起きて寝て飲んで食べておればよいというものではない。 (2016年8月)

よあけのまえは やみにきまっている やみにさきだつ よあけはない ことである 〜 たかみつ だいせん〜

夜明けの前は闇に決まって居る 闇に先立つ夜明けはないことである 〜高光大船〜 2016年7月

世の中が揺れている。欧州は、アジアはそして日本はどうなってしまうのだろう。社会の混迷はいまに始まったことではないのだが、行く先への不安が募る。まさに一寸先は「闇」の状態である。

しかし、そんな時こそ高光氏の言葉は心に響く。冷淡にも聞こえるが、奥底からくる真実味がある。何度も読みかえしたくなる言葉だ。「夜明けの前は闇」「闇に先立つ夜明けはない」。ただ、ここでいう夜明けとは、人間が思い描くような「世界の平和」ごときではない。所詮は利己心剥き出しの人間世界、平和を旗印に掲げたとて、聞く耳を持たぬ輩は必ず生まれてくる。

夜明けとは他の誰でもない「自らの目覚め」である。誰かが目覚めさせてくれるのでもなく、誰かを目覚めしめるのでもない。私自身が私自身の人生に目覚めること。このことひとつである。なぜなら「外に求め、人のせいに」するのは「賛成・反対」派、ともに常套手段ではないか。不安が根底にある似たもの同士が、互いを罵りあい、傷つけあっても、生み出すものは憎しみと闇の連鎖に過ぎない。

この世は闇だ。ただ、その闇を作っているのはこの私自身なのだ。そう実感したときが、おそらく夜明けに最も近い所にいる。(2016年7月)

ひとのけってんが よくみえること じたい じぶんのけってん

人の欠点がよく見えること自体 自分の欠点 2016年6月

いつの時代でも、自分のことはさておきながら、他人を責めることが大好きなのが人間の根性である。最近インターネット上の交流サイトで口汚く他者を批判する姿をよく見かける。

個人的に思うのだが、そんなに主張したいなら自費出版するなり、同じインターネットでも個人ブログできっちりと主張すればいいわけで、他人と交流をはかるような場所ではやめたほうがいい。

あの場所は、雑談も主張も等しく時間とともに流れゆくくせに、内容だけは文章で残る。いわば井戸端会議が記録されるようなもので、結果としてあげ足取りに終始してしまう。

親鸞聖人の弟子・唯円は「歎異」という言葉を用いた。異なることを歎くと読めるこの言葉は、ただ一方的に相手を責めるということを推奨しない。「私にもそういう一面がある」に始まり、「いや、私こそが真実に背いて生きてきた」と、相手を責める前に自らを省みる。だから唯円は「なくなくふでを染めてこれを記す、名づけて歎異抄というべし、外見あるべからず」と謙虚に記した。曽我量深師は「歎異こそ真宗再興の精神である」とおっしゃる。

新聞やテレビの報道とて根底は同じで、私たちは日ごろ安易に他者をあげつらっている。省みればそういう私こそ、お恥ずかしい身を生きているというのに。 (2016年6月)

くわねばいきられぬ では くっておれば しなぬか

食わねば 生きられぬ では 食っておれば しなぬか 2016年5月

先日、高校生数百人の前でお話をさせてもらう機会を得た。なるべくわかりやすくと心がけたものの、どんどん彼らが眠りに落ちて行くのを感じ、我が力量のなさに改めて思い入った。

しかし自分を省みれば、高校時代など、仏教の話などいささかも聞こうとは思わなかった。つまり彼らはかつての自分。興味や課題の対象が異なれば、どんな言葉が耳には入ってきても届かないものだ。

さて、さしずめ現代の興味の対象は、世相を見渡せば失礼ながら「食うこと」、つまり経済的に一所懸命である。テレビ番組が如実に示すように、時代のニーズが儲けて・遊んで・食うということにシフトしている。これでは仏教の話などなかなか広まらないだろう。

かつて某市長がある職場にたずねてゆき「あなた方はなぜ働くのか」と聞いたという。すると彼らは「働かんと食えん、食えんと死ぬがな」と言った。市長は「なるほど、では食っていたら死なんかね」と問い返したところ、彼らは沈黙し、考え込んでしまったという。この沈黙こそ、彼らがその言葉に出遇ったあかしなのだろう。

食ってさえおれば生きられるのではない、その一歩先こそがが大切である。誰のためでもない、「わたし」の人生をかけた一大事なのだから。 (2016年5月)

ふかいみずほど なみだたない あさいみずほど なみがたつ ひとのこころも それとおなじだ

深い水ほど 波立たない 浅い水ほど 波が立つ 人の心も それと同じだ 2016年4月

昔から「腹の立ちやすい人」というのはどこにでもいた。失礼を承知で言い切ってしまえば、つまりは「目先の情報にのみつい意識がとらわれてしまい、その情報が持つ背景を汲み取る事が苦手な人」ということではないか。

かくいう自分も省みれば気の短い部類だなぁと今さらながら思う。幾つになっても上手くコントロールできない。ただ最近、かつてある人から教えられた方法で、ほんの少しだけ乗り越えられるようにもなってきた。それは「深呼吸をする」ということである。深呼吸すれば、確かに不思議と気持ちがすっと楽になる。

そういえばお釈迦さまも「安般守意(アナパーナ・サチ/ānāpāna sati )」といって深呼吸の大切さを説いておられる。人間は「怒責」といって腹が立っているとき呼吸が浅くなっているらしく、だから脳に新鮮な血液が行き渡ることはとても重要なのだ。浅い呼吸が深くなることで、日ごろ浅くて波立ちやすい心が深まり、少々のことでは波立ちにくくなるのかもしれない。

情報がわんさとあふれている時代である。ネットに限らず、目先の単純な情報に踊らされぬよう、しっかり深呼吸をしてゆきたい。阿弥陀さまから「大丈夫か」と案じていただいている眼差しを忘れないためにも。(2016年4月)

めでたさも ちゅうくらいなり おらがはる 〜こばやし いっさ〜

めでたさも 中くらいなり おらが春 〜小林一茶〜 2016年3月

小林一茶が浄土真宗の念仏者であったことはあまり知られていない。 このことを念頭に置かなければ、彼が本当に意図したところはわからないだろう。

「めでたさ」とはその季節・時代を生きる価値観であるといえる。年末には鐘を撞き、正月は神社、春は花見、夏はアウトドア、秋は飽食とダイエット、そして忘年会にクリスマス…近年では価値観も多様化したとはいわれるものの、どうしてなかなか、相も変わらずコマーシャリズムに追い立てられているのが世の姿である。

毎朝の通勤でもそうだ。少しでも先に、先にと、気持ちがつい、翻弄される。すこし離れてみれば「なぜそんなに急ぐ必要があるのか」と不思議な気持ちになる。

一茶はそうして世の人々を少し離れたところから見つめているようだ。四季折々に都度振り回されることなく、しっかりと自分の丈に合う「中くらい」をかみしめ直すほうがより味わい深いことではないだろうか。「おらが春(季節)」は、忘れていても一人ひとりにちゃんと訪れている。季節を愛でるなら、パソコンやテレビを消し、静かに表を眺めていても充分なのだ。

『お浄土とはどういうところにあるか、というと、現生というものを「置いてみる」場所です』という金子大榮氏の言葉を思い出す。 (2016年3月)

まいにち ごはんをたべている ちゃわんの もようが いえますか 〜 とうい よしお〜

毎日ごはんを食べている 茶わんのもようが いえますか 2016年2月

教育者・東井義雄氏が版画家・長谷川富三郎氏の著書でこの一節に出遇われたという。「はてな、わしの茶碗の模様、どんなんだったかいな」。どうしても思い出せない。自分だけかと思い、奥さんに「お前のご飯の茶碗の模様、ちょっというてみい」とたずねてみれば「さあ?」…。

みなさんはどうだろう。私は氏を笑えない。全く思い出せなかった。東井氏は「毎日キスしながら、相手の模様が言えない。(中略)粗末な出会いをやっとるんです。茶碗はこれでも赦してくれますが、人間の出会いも近頃こういうことになっとるんじゃないでしょうか」と仰る。

人と人が出会うということは、単に顔を合わせているだけではない。とてつもない互いの背景(縁)の重なり合いが起きているのだ。この手、この足、この顔は、誰が作ったのか。学問的に「DNAという設計図の業(わざ)」だとしても、その設計図は誰がこしらえたのか。またその設計図どおりを保つためにどれだけのイノチを食べ、どれだけの人(イノチ)と関わっただろう。茶碗ひとつとっても考えようのない、不可思議な働きに包まれてあることを知る。人間はそうして日々「出遇い」つづけている。

この実感こそが「他力」である。毎日を「自力という思い込み」で生きている場合ではない。仏法のことは、急げ急げ。(2016年2月)

としをとることは よろこびである きょねんわからなかったことが ことしは わかるからだ

年をとることはよろこびである 去年わからなかったことが 今年はわかるからだ 2016年1月

近年、趣味で燻製に凝っている。年末にも家族の不評(?)を顧みず、大量燻製を決行した次第。元旦にはゆっくり燻製を味わい、来客にも振る舞った。

さて、若干マニアックな話になるが燻製の手法には3種類、それぞれ熱燻・温燻・冷燻とある。一番手間がかからず時間が短いのが熱燻で、時間と手間がかかるのが冷燻である。温度管理が楽な中間の温燻を選ぶ事が多い自分であるが、時に冷燻に近いほど手間と時間をかけることもある。やはり同じ燻製でも、手間をかけた方が味わいも深く、香りも豊かで、しかも達成した喜びも大きい。

人間にも同じ事が言えるかもしれない。「時間をかけてきた」ことが意味を持つ事は人生において非常に多い。一方で「こんなものは無駄だ」「どうせ無理だ」と思考の中だけで、行動を伴わず簡単に結論を出す事は人生においてあまり得策とはいえない。なぜなら何事についても、良き・悪しきの真相とは時間をかけてみないとわからないことだらけなのだから。

仏教には「薫習」という言葉があり、簡単に言えば思考も行動もその積み重ねが、その人を形づくるという。日々これ温故と知新。ふるきをたずね、新しきを知る。そこに毎日が初事なりと、意識の底から薫習されゆく人生が開かれる。 (2016年1月)