まわりぼとけさん

住職法話 > その他>まわりぼとけさん

2011年2月22日、旧ブログに掲載した記事です。

「まわりぼとけさん」って、ご存知ですか?

滋賀県は湖北のご門徒の間に伝わる仏教行事です。

由来は東本願寺・第19代乘如(じょうにょ)上人と、第20代達如(たつにょ)上人の時代まで遡ります。

天明8(1788)年、1月30日、京都で大火がありました。

のちにいう「天明の大火」です。

京都史上最大規模の火災であったと言われます。この類焼により、第12代教如上人以来、存続してきた東本願寺が焼けてしまったのです

この時の御門首が、乗如上人でした。

乗如上人はたいへん、ご苦労の多い方だったと聞きます。

お子さんが7人生まれて、達如上人1人を除いてすべて死別されたといいます。

そこへ大切にお守りしなければならない御堂が焼けてしまったのです。責任よりも何よりも、子たちとの思い出がつまっていたであろう建物が烏有に帰したのです。

焼け跡にたたずまれた心境は、いかばかりであったでしょう。

さらに、乗如上人の時代には「宗名事件」という問題が起きます(Wikipediaでは「宗名論争」で記述あり)。

浄土真宗の「真」の字がけしからん、ということで「一向宗」とか「念仏宗」と名を改めよと責められた16年の長きに亘る論争です。

結局のところは幕府が仲裁に入っても決着がつかず、最終的に朝廷側の仲裁で「1万日(3万日とも)のおあずかり」になる大論争です。

(ちなみに1万日なら27年、3万日なら82年ということですから…うやむやにしたというか、この問題は触れないでおこうという配慮ですね)

論争の双方、言い分はあると思います。そのことをどうこういうつもりはありません。しかし、浄土真宗の立場からすると、宗祖の言葉を命がけで守ろうとしたわけです。(この問題は明治時代になってからも再燃しますが。)

大変なご苦労であったわけです。

さて、話はそれましたが、

火災の後、すぐに乗如上人は大坂の八尾別院(大信寺)の本堂を移築して仮御堂にし、再建をめざすべく全国にご依頼文を飛ばされます。


それに呼応した全国のご門徒が立ちあがられたのです。


当時交通手段はほとんどが徒歩であったわけで、気楽にちょっと京都へというわけには参りません。

ご門徒にとって、故郷を捨てる覚悟といっても過言ではなく、これが家族との最後の別れとなった方も少なくなかったでしょう。まさに命がけの再建事業であったわけです。

これは聞いた話ですが、このとき乗如上人は真っ先に「ご門徒の集会場を作るように」云われたといいます。

今の「総会場」です。本堂の再建も大事ですが、作業される皆さんの「毎日の聞法の道場」を建てることを最優先されたというのです。

この後東本願寺は計4度、火災に見舞われますが、その都度「総会場」が最初に建てられることになったといいます。

(口の悪い京の人はあまりによく焼けるので、東本願寺ならぬ「火出し本願寺」と陰口したといいます。)

ご門徒の尽力もあって、本堂は無事、再建されます。

しかし乗如さんはたび重なる心労もあって32歳で示寂(じじゃく:なくなられること)され、ついに完成を見ることはなかったといいます。

そんな事情ですから、本堂が完成した後も、ご門徒はいろんな思いが去来し、諸国へ帰るに帰れません。そこで第20代達如上人は、皆の思い出深い、今は亡き我が父「乗如上人御影」と、「御書(お手紙)」を全国のご門徒に託されます。

これを大切に戴いて帰り、順番を決め、各村々で今も勤められるのが「まわりぼとけ」さんです。

爾来およそ200年の長きにわたり、湖北のご門徒の間でこの行事は受け継がれています。乗如上人の御影は「生きている」扱いですから、ほかに「御越年(ごおつねん)」法要も勤められます。

無事に年を越してほしいという願いなのでしょう。


現在、この仏事が残っているのは全国でも「富山県」「石川県羽咋市」そして「滋賀県湖北地方」の3箇所のみだとか。

教如上人廟所(五村別院内)

「御越年(ごおつねん)」のようす。御越年とは書いて字のごとく、年を越す、つまり乗如上人の御影がいち在所にあって年をまたぐ法要です。

まわりぼとけの一年はこの御越年にはじまり、御越年に終わります。

…以上はほとんどが湖北の老師よりお聞きした内容です。

私はこのまわりぼとけさんの御縁をいただくまでは、そういうことを全然知らなかったのです。地元にいながら43年間、ご縁がありませんでした。ところが、今回のまわりぼとけさんを御縁として、続々と私の手元に資料が集まってきました。これまた不思議なことです。


なおこの行事、私もはっきり言われましたが「門徒の行事や」と言われます。「お寺さんはお客さんやで」とも。

寺院ではなく、一般の民家を開放して行われます(最近は公民館という例も増えましたが)。とにかく大行事です。

そこへ80名近くの人がお参りに来るのです。多い村では250人とも言います。

…さしたる宣伝なんかぜんぜんしてないんですよ。しかもすべてご門徒の手作りです。

私がとやかくいう前に乗如さんのお講を門徒さんが守っておられるのです。これは理屈ではありません。

本山の御遠忌を目前に、何かと問題を指摘される声も聞かれます。しかし真宗寺院の強みは「お寺やなくて、門徒さん」だと思うのです。門徒さんがお迎えになる法要なんやということ。そこんとこ、私ら僧分させてもろてるモンは忘れたらあきませんね。

…と、思いました。


なお、本日2月22日は聖徳太子の御命日でもありますが、「乗如上人の御命日」でもあります。

法要儀式上はどうしても宗祖がうたわれた「和国の教主・聖徳皇」を大切にいたしますが、この文章をお読みになられた方は、どうぞ乗如上人の御命日も兼ねているということも憶念くださいますよう。


南無阿弥陀仏

※後注:ちなみに第15代、常如上人の時代に移築されたのが現在の長浜別院「大通寺」の本堂です。実は焼けてしまうその前の御影堂がここ長浜に残っている、というのも不思議な気持ちにさせられます。

追記:まわりぼとけさんについては、こちらのサイト(浄願寺:澤面宣了師)でも詳細に紹介されています。