住職法話>問いと答え>第2回 正信偈ってどんな"お経"?
「正信偈(しょうしんげ)」は、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人が作られた「偈文(げもん)」という歌です。 一般的に、お経はお釈迦さまの言葉を指すため、厳密にはお経とは言いませんが、私たちにとってはとても大切なお勤めです。お経を読むことを「読経(どきょう)」と言うのに対し、正信偈やご和讃を読むことを、日々の感謝を表す行いとして「勤行(ごんぎょう)」や「おつとめ」と呼んで区別しています。
「正信偈」は、親鸞聖人の主著『教行信証』の第2巻「行巻(ぎょうのまき)」の最後に記された漢詩です。 この漢詩を、わかりやすい日本語の歌「ご和讃」と共に、朝夕みんなで声を合わせて唱えることを勧められたのが、本願寺第8代の蓮如上人でした。それから500年、今日に至るまで「おつとめ」として親しまれ続けています。
正信偈の内容を一言で表すなら、私は「光と寿(いのち)の物語」だと受け止めています。
前半部分は「光のうた」です。 親鸞聖人が大切にされた浄土三部経(無量寿経など)に説かれる、阿弥陀さまの救いの光(教えそのもの)が讃えられています。
そして後半部分は「寿(いのち)のうた」です。 インド・中国・日本と渡り継がれてきた七人の高僧(七高僧)が登場します。阿弥陀さまの光に出遇い、その教えを「いのち」を懸けて次の時代へとリレーしてくださった先人たちの感動が綴られています。 前半は「阿弥陀さまの教え」、後半は「その教えに生き、伝えてくれた人々の歴史」が描かれているのです。
実は、この「光」と「寿」は、正信偈の冒頭にある二行に見事に凝縮されています。
帰命無量寿如来(無量寿如来に帰命し)
南無不可思議光(不可思議光に南無したてまつる)
ここにある「寿」と「光」こそ、阿弥陀さまのお名前そのもの(アミターユス=無限のいのち・アミターバ=無限のひかり)なのです。
「正信偈」、すなわち「光と寿のうた」には、親鸞聖人が見出された “人として生まれたことの意味” が込められています。
日ごろ、さまざまな課題や悩み、苦しみに振り回されている私たち。しかし、そんな私たち一人ひとりに、悠久の時を超えて「寿(いのち)」のバトンが手渡され、多くの人々がその事実に勇気づけられてきました。 生物としての繋がり(DNA)だけでなく、もっと根本的な「いのちの繋がり」があるという事実です。 お釈迦さまは、その真実を「お経の言葉」として遺してくださいました。
お経の言葉をいただいた時、私のいのちは孤独ではなく、無限の繋がりの中に生かされている事実に気づかされます。これを「生きている事実」と言います。 ただ目の前のことに流されて生きるのか、それとも「生きている事実」に目覚め、大きな安心感の中で生きるのか。そこには大きな違いがあります。
正信偈は、親鸞聖人が800年の時を経て私たちに届けてくださった「生きる喜びのうた」です。 そして、その喜びを味わう方法は、いつでも・どこでも・誰にでもでき、誰からも奪われることのない、最もシンプルな姿をしています。
それが「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」とお念仏を称えることです。
名前を呼ぶ、ただそれだけの行為に見えるかもしれません。しかしそこには、「私」というちっぽけな存在が、「無限のいのち」と一つに重なり合うという、深遠な哲学と喜びが含まれているのです。
正信偈が生まれて800年、蓮如上人が勤行を勧められて500年。 私に先立つ数えきれない先輩たちが、この「寿(いのち)」のうたを口ずさんできました。私たちが声を出す時、時空を超えて「光」のように瞬時に、懐かしい先達と繋がることができます。
さあ、ご一緒に唱和しましょう。 「南無阿弥陀仏、人と生まれたことの意味をたずねていこう」ではありませんか。
2026年1月30日改稿
以前、ブログに掲載したものを転載しております。