住職法話>問いと答え>第4回 南無阿弥陀仏は称えるもの?
結論から申しますと、「南無阿弥陀仏」という声こそが、仏さまが私を救うために完成された「活動そのもの」だからです。
これに答えるには、とてつもなく長い、「五劫」という時間の物語を紐解く必要があります。なお、一劫だけでもおよそ40数億年と言われますから、気の遠くなる話です。
これはお経(『仏説無量寿経』)に説かれる物語がベースになっています。
【物語】 昔むかし、あるところに一人の王様がいました。王様は、世の中の人々が争いばかりしていることを深く憂いていました。
ある時、王様は「世自在王仏(せじざいおうぶつ)」という仏さまに出会い、その尊い姿に感動します。王様は「どうすれば、あなたのようになれるのか。すべての命を救うことができるのか」と問いかけます。
世自在王仏は、無数の仏の国々を王様に見せ、「それは自分で考えなさい」と説きました。
そこで王様は位を捨て、「法蔵(ほうぞう)」という名の菩薩(求道者)となり、五劫もの間、思索を重ねました。
ところで、法蔵菩薩は修行の過程で気づきます。
「人間は、どこまでいっても自己中心的な心を捨てきれない。煩悩をなくす修行など、到底できないだろう。そんな彼らを『修行して立派になったら救う』と待っていては、永遠に救うことはできない」と。
そこで法蔵菩薩は決意します。
「彼らが修行するのではない。私が彼らに代わってすべての修行を行い、その功徳をすべて彼らに与えよう」
「もし私が仏になったとしても、悟りの世界に安住して、ただ座っているだけの仏には絶対にならない。私は、苦しむ彼らのところへ飛び込んでいく仏になろう」
そして、法蔵菩薩は不思議な誓いを立てられました。
「私の修行が完成したその時、私の名前を『南無阿弥陀仏』という言葉(名号)に仕上げて、彼らに届けよう。彼らの口から私の名が称えられた時、私はその声となって彼らと一緒に生き、必ず救い遂げる」
法蔵菩薩は永い修行の末、ついに阿弥陀仏という仏になられました。
しかし、ここからがこの物語の真骨頂です。
阿弥陀さまは、仏として完成されたにもかかわらず、今もなお、法蔵菩薩の時と同じ熱意で、私たちのもとで活動し続けてくださっているのです。
【物語ここまで】
これがお経に説かれた「如来の本願(真実の願い)」です。 阿弥陀さまという仏さまは、「完成された仏の力」を持ちながら、同時に「あなたを救うために走り回る菩薩の働き」を重ね持っておられるのです。
人間が念仏を称えなければならない理由はここにあります。 私たちは「真実」が見えません。自分の都合で現実を歪め、相手を責め、孤独になります。
ある先生に教えてもらいました。人間が見えているのは自分の都合で歪められた現実だけだ、と。現実を見ているもの同士、自分の都合で争っているのだ、と。もし彼らが冷静になって互いに歩み寄ったとしても「真実」にはほど遠く、せいぜい「事実」にであうぐらいしかできない。とも。
そんな私たちが、自力で心を清くすることは不可能です。 だからこそ、真実の阿弥陀さまの方から「南無阿弥陀仏」という言葉となって、私たちのところに来てくださったのです(だから他力って言うんですよ)。
では、心の中で念じていたらいいのでしょうか。 これもまた無理な話です。心の中で念じている時、本当に心の中は仏さまだけでいっぱいになりますか? 「今日の夕飯はどうしよう」「あの人が許せない」「忙しい」……雑念でいっぱいになるのが私たちではありませんか?
だから、「声に出す」のです。 ご本尊を見つめ、口に「南無阿弥陀仏」と称えれば、その声は自分の耳に届きます。 どれほど心が乱れていても、口から出る「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀さまそのものです。 あなたが称えているようでいて、実は、阿弥陀さまがあなたの口を使って「ここにいるぞ・あなたはひとりではない」と呼びかけてくださっている。 これが念仏の姿です。
「南無阿弥陀仏」と称えるとき、仏さまは遠い空の彼方にいるのではありません。あなたの声となって、今、あなたご自身と重なり合ってくださっています。 どうぞ、その呼びかけをご自身の口から味わってください。
2026年2月3日改版
以前、ブログに掲載したものを転載しております。