住職法話>問いと答え>第5回 水子供養をしたいのですが。
あるご住職のもとに、「悪いことが続くので水子供養を」と訪れた方がいました。
住職はその方に、「それは水子のためと言いながら、本心は自分の災難を逃れたいという『大人の都合』に過ぎません」と諭されました。
「お経で罪は帳消しにはなりません。あなたが仏法に出遇い、救われてこそ、水子もまた仏としてあなたを導く存在になるのです。『水子のために(してあげる)』ではなく『水子のおかげで(気づかせていただいた)』と手を合わせる生き方へ転換してください」 と。
そう導かれたその方は、その後、熱心に仏法を聞かれるようになったそうです。
「水子(みずこ)」とは、本来「すいじ」と読み、乳児期・幼児期に亡くなったお子さんを指す言葉です。 しかし昨今では、「水子がたたる」「供養しないと不幸になる」といった、不安を煽る言葉と共に語られることが多くなりました。
考えてみてください。すべての子どもは、親を苦しめようとして生まれてくるのではありません。ましてや、縁あって宿ったお腹の子が、親に悪さをする「悪霊」になるはずがありません。 もし、亡くなったお子さんが何かを訴えているのだとしたら、それは「私を祟りの原因にしないで」「私を忘れないで」という悲痛な叫びではないでしょうか。
乳児や幼児が、自ら死を望むことはありません。では、なぜその小さな命は失われたのでしょうか。 病気や事故など、どうしようもない別れもあります。しかし、「水子供養」という言葉が使われる背景には、時として私たち大人の「事情」や「都合」が関わっていることも事実です。
経済的な理由、世間体、将来への不安。そうした「大人の事情」によって、生まれてくるはずだった命が閉ざされることがあります。 どんなに言葉を尽くしても、そこには「人間の都合で、命のあり方を左右してしまった」という事実が残ります。この厳粛な事実から目を背け、「供養したから大丈夫」「お経をあげたからチャラになる」と考えるのは、あまりにも虫が良い話ではないでしょうか。
それは、かつて命をコントロールしたのと同じ論理で、今度は「罪悪感」さえもコントロールしようとする、私たちの身勝手な心の現れかもしれません。
真宗では、いわゆる世間一般的な「水子供養」はいたしません。 それは、命を「水子」という特別なカテゴリーに分けて差別しないからです。そして何より、お経や金銭によって「過去の事実」や「罪悪感」を消し去ることはできないと考えるからです。
亡くなったお子さんは、決してあなたを呪ってなどいません。 むしろ、短い命をもって、あるいは生まれ出ずる前の命をもって、「命は人間の思い通りにはならないのだよ」「あなたの命も、無数の縁によって生かされている尊いものなのだよ」と、身をもって教えてくださっているのです。
私たちにできる本当の供養とは、罪悪感を消すことではありません。 「あの子の命を背負って生きていく」と腹を括ることです。 痛みや悲しみ、そして消えることのない申し訳なさ。それら全てを「無かったこと」にせず、その痛みを抱えながら、仏様の教えを聞き続けていくことです。
その時、亡くなったお子さんは、単なる「可哀想な存在」や「恐ろしい霊」から、私を真実の道へと導いてくださった「仏様」となります。
安易な癒しを求めないでください。「これでさっぱりした」と忘れてしまうことが、本当の救いでしょうか。 人間は、時に苦しみを「受けて立つ」ことが求められます。 亡くなったお子さんのことを思い出し、胸が痛むなら、その痛みをごまかさないでください。その痛みこそが、その子が確かに存在した証であり、あなたとその子を結ぶ絆なのです。
「あなたのことは忘れない。あなたのおかげで、私は命の尊さに気づくことができた」。そう手を合わせられた時、そこには恐怖も祟りもありません。あるのは、静かな悲しみと、深い感謝だけです。
「水子のために」ではなく、「水子のおかげで」。 そう転換できたとき、本当の意味で、あなたもお子さんも救われていくのだと、私は信じています。
2026年1月30日改稿
以前、ブログに掲載したものを転載しております。