問いと答え05 ・水子供養をしたいのですが。

住職法話>問いと答え>第5回 水子供養をしたいのですが。

最近困ったことが次々と起こるので、見てもらったら、「水子の供養をせよ」と言われました。どうすればよろしいでしょうか。

答え:

大切なご質問です。まずはこちらをお読みください。

あるご住職のお話です。 ある時神さんに見てもらったら、水子供養のためにお寺へ行って三部経を読んでもらえと言われましたので」と来られました。「真宗では、そんな気休めのお経は読まんのです。共に目覚める方向へ歩ませてもらうよう教えを聞くことが大切なのです」と、一旦は断わったが、しかしこの人はまた他の寺へ行って気休めをしてすまされるだろうから、折角の仏縁をこちらから切って、本人を永遠の迷いの海へ流してしまうよりは、この縁を生かそうと思い直し、一巻のお経を丁寧に読みました。

終わってから、「読経中、何を考えながら参っておられましたか?今あの子が無事でいたなら12、3歳にもなっているのが可哀想なことをしたなぁか、あるいはこれで水子も浮かばれて、私の病気もなおるだろう、やれやれか、どちらです?」

「正直申し上げて、後のほうです。健康がすぐれないので見てもらったら、水子の供養をせよと言われたもので…」と告白されました。

「水子のためと言われたが、本心は自分のため、我が病気のために水子をダシにしているにすぎませんよ。その時は自分の都合で水子にし、今はまた自分の都合で水子をダシに使おうとしている。というのが『水子供養』というものの姿ですよ。気まま勝手この上ない自己中心の営みをあなた自身が重ねるだけです。そしてその罪業は、お経で帳消しにはなりませんよ。お経はむしろ、罪の深さを教えてくださるご説法なのですから。」

「そんなら、どうしたらよろしいか」

「煩悩の心で生きている私たちは皆、罪業の持ち主なのです。あなたばかりではありません。そして共にその罪をお経や念仏で帳消しにはできないのです。迷いの世界から覚りの世界に目覚めていかなければ、たとい罪の帳消しができたとしても、煩悩の心で後から後から限りなく罪を作りますから、部分的に罪を消したとしても、自分自身は助からないのです。私自身が罪の自覚の上に、仏の教えに救われなければなりません。また、私の力で死んだ人を救ったりもできないのです。本当に子どもを救いたいなら、自分が仏の教えに聞かねばなりません。そして自分が救われた時、初めて水子も救われるのです。それが仏教です。今日のことをご縁に仏法に近づいてください。そのことを仏様は念じていて下さるのです。

今日、門を入るときは『水子のために』と思ってこられたでしょうが、この話を本当にわかって下さるなら、門を出て帰られる時は『水子のお陰で』と受け取られるでしょう。そういうお導きを受けたという上から、水子もまた、仏様の化身であったと受け取られるのではないでしょうか。」とお話をしたことでした。

その後、この方は聞法会に出席してくださるようになりました。/end

大阪教区教化センター発行「教化センター通信」より・2010年06月翫湖堂所収

■住職追記■

「水子供養」ってどう思われますか?

「水子」の定義はさまざまですが、乳児期・幼児期に夭折した子どもを総称して水子(みずこ・本来はすいじ)というそうですね。

「親より先に死んだ子どもが親不孝だから成仏できないで苦しんでいるから、供養しないといけない」。とか、「供養しないと悪霊になって身内に不幸が起こる」または「すでに起こった不幸の原因は水子にある」とかいう言葉を目にします。

でも、死んだ子どもだって別に死にたくて死んだわけじゃありません。すべての命は死にたくて死ぬわけじゃないのです。 仮に自殺だって死にたいというのは最終的理由で、本当は「絶望」、つまりこの世を生きることにいきづまってしまったのです。「生きたいけれどその意欲を失ってしまったこと」に自殺の根本はあるのではないでしょうか。


■赤ちゃんのイノチとオトナのツゴウ

これは私の師から聞いた話ですが、赤ちゃんは生まれて8時間放置されると、通常なら死んでしまうそうです。時に奇跡的に助かることもあるそうですが、平均 して8時間をタイムリミットとしてこの世に生まれてくるわけです。つまり「誰かが救い上げてくれる」ことを「信じて」、いのちはこの世に生まれてくるのです。

乳児や幼児が自ら絶望し、命を絶つということは考えられません。だから、「死にたくて死んだわけじゃない」のです。 では乳児期・幼児期の命はどうして絶たれるのでしょう。

不幸にして、お母さんのお腹の中で、また生まれてまもなく病気などの理由で亡くなる事もあるでしょう。が、「水子供養」という言葉を使うとき、厳しい言い方をすれば「圧倒的 に大人の都合で殺した」ということですよね。ニンゲンのツゴウがいのちの存続を許さなくしているのです。どんなに言い繕っても、「水子供養」というこの言葉の裏には、上記の法話にあるような「うしろめたい」大人の動機が潜んでいると思います。

そういう方を責めようとしてこんなことを書いているのではありません。ここが肝心だからはっきり書いております。

私自身の浅い経験ではありますが、自らの意思とは裏腹に(事故や病気など)子どものいのちと悲しい別れをしなければならなかった方々は、ほぼ例外なく「亡くなった子どもは『仏』であった」とうなずかれた現場を見てきました。そこに「うしろめたさ」はありません。なぜなら「オトナのツゴウ」が入らない、まことの辛い別れであったからでしょう。

共に生きようとしたけれど、人智を超えたやむをえない力によって、それが果たせなかった。その涙のふちから戻られた方々は皆、「いのちは私有化できないのだ」という事実を自覚され、その悲しみの奥から、いのちそのものの不思議に手を合わされます。

いのちを安易に、「水子」というカテゴリに入れてよいのでしょうか。 単に親を悲しませる=親不孝者だといえるのでしょうか。 ましてそのために子があの世で苦しんでいると誰が断言できるのでしょうか。

子はすでにこの世にいませんが、その思いは親同様、共に生きられなかった悲しみを抱えていることでしょう。親を縁とし、この世へ生まれようとしたのだけれど、生まれる前に、または生まれてすぐに縁尽きて、親より先にいのちの世界に帰らねばならなくなったのです。…そうして、残された親をして親を越えた存在となり、親の掌(たなごころ)をあわさせる縁そのものとなった…まさにそれは「仏」ではありませんか。

「水子」という言葉にはいのちを私有化してしまった人間の都合が潜んでいるように思えてなりません。

いのちに「わたしに先立つ仏」と手を合わせられない性根をもつ、または事情をもつ人びとが、うしろめたさから甘い言葉に踊らされ、迷いながら、さらなる迷いを深めている姿にしか見えないのです。 苦しんでいるのは「うしろめたい」オトナ自身なのです。すりかえてはいけません。

今回の法話のように、自分の都合を「しかたがない」と決めてしまういう大人に私は心底怒りを覚えます。そういう人は仮に自らが「しかたがない」といのちを絶たれるとして、そのことに納得できるのでしょうか。


■真宗の水子供養

真宗では「水子供養」をいたしません。というより、できないのです。

いのちを人間の都合で分類できない、というのです。はっきり申せばそういう、「うしろめたいことをした側の甘えを許さない」厳しさでもあります。

いのちはすべて、平等です。もちろん娑婆を生きる上で、いろんな格差が生まれることがあるでしょう。でもいのちに大小上下はありません。すべて同じなのです。だから、私より先に浄土へ還られた方はすべて、わたしを導く「仏」であると思います。

したがって、なくなった子どもを諸仏として手を合わせ、読経こそいたしますが、これは良い、これは悪いといった分け方をおこなわないのです。ゆえに真宗では人の都合や甘さにつけこむような「水子供養」はいたしません。

「お金で罪が帳消しになる」と思っている人は中世から思考が止まってるのではありませんか。「免罪符」という愚行を現代に繰り返すというのしょうか。


■まことの癒しとは

近年の宗教は「癒し」の側面を強く求められます。しかし、人間の都合・人間の意識に沿い、言い訳を許すような「癒し」は真の癒しではありません。一見、寄り添うように見えて、その人の人生における問題や課題をぼやけさせているだけだからです。

問題や課題の中にこそ真実はあります。苦しみや悲しみがそれを教えてくれることもあるのです。

だとすれば、安易な水子供養、癒しのための水子供養、そして言い訳のための水子供養はむしろ仏敵でないか、とすら思います。供養という言葉を借りて、子どもがかつて存在していたことを封じ込めている姿に見えてなりません。

それこそ宗祖親鸞聖人が厳しく糾弾された、「似て非なる仏教」そのものだからです。

人間は時に苦しみを「受けてたつ」ことが求められます。

「受けて立つ」ということは「人として生きている悲しみを知る」ということでもあります。今回の場合ならば、かつてわたしが、いのちと向き合えなかったという悲しみ。そこにこそ浄土真宗の「悪人正機」の思想が輝いてくるのであり、真の癒しです。

向き合うことはつらいことです。しかしその難しさこそが人生の深まりに必要です。

藤場俊基先生がご自身の著作の中で「自分がすぐにうなずけるものだけが、教えであるわけではありません」とお書きになっておられます。 まさに我の考えで、我の行動に都合のよいものだけを取り入れて生きる私たち(すなわち、受けて立てていない私たち=我執)を言い表して下さっている言葉だと思うのです。

以前、ブログに掲載したものを転載しております。