問いと答え11 ・どうして私の家は浄土真宗?
住職法話>問いと答え>第11回 どうして私の家は浄土真宗?
問・私の家は、代々浄土真宗の門徒で、○○寺が手次寺だと聞かされているのですが、どうして真宗の門徒になったのでしょうか。また、お手次の寺はどうして決まったのでしょう。
現在の日本の檀家制というのは江戸時代の檀家制度の名残が強く残っています。江戸幕府はキリシタンを禁止するために、全国の人々をどこかのお寺に所属させました。そのときには、多くの人々が幕府や藩の命令で無理に近くのお寺の檀家にさせられたのです。
しかし、真宗のご門徒だけは少し事情が違っていました。たとえば、眞廣寺の場合、かつて天台宗の末寺であったところ、本願寺8代目の蓮如上人が今の福井・吉崎へ向かわれる際にこの地を通られ、そのご縁で天台宗から浄土真宗に転派したといわれております。
おそらく私たちの祖先は、蓮如上人とご縁を結ばれるうち、自分達の身近に仏教の教えを聞き、お念仏のできる場所が欲しいと、眞廣寺に集まりの場を持たれたのでしょう。(ちょうど今の御惣仏〜おそうぶつ〜が蓮如上人の時代の絵像と言われております)、そうして眞廣寺は念仏の道場となったのです。
その後戦国時代になると、織田信長にこの地も襲われ、当時の住職が殺害されるなど激動の時代が続きます。しかし、そんな苦難の時代を乗りこえ、本願寺第12代の教如上人を支えながら、再びこの地に念仏の道場を再建されました。
なお、教如上人とは信長の武力主義に反して各地のご門徒衆と共に抗戦した方です。のちに千利休と親交を結び、それを縁に豊臣秀吉とも対等に渡りあいながら、現在の西本願寺の土地を得られます。
その後、石田三成と千利休の確執の影響もあって教如上人は本願寺を追われますが、そんな上人の窮地を救おうと湖北ご門徒が建立したのが今の五村別院(長浜市)です。
五村別院(住職画)
無礙智山大通寺(住職画)
さらにその後、徳川家康とも親交を深めた教如上人は、全国のご門徒から寄せられた貴重な情報を提供し、関ヶ原合戦前夜の情報戦が家康方に有利に働くよう助けます。家康はそのことを深く感謝し、現在の東本願寺と枳穀邸(渉成園)の土地を寄進しました。つまり、教如上人は東西本願寺分派のキーマンともよばれています。そんな時代を我々のご先祖も共に歩まれたわけです。
なお、長浜別院・無礙智山大通寺の本堂は、教如上人がお建てになった東本願寺の「初代」の建物だと言われております。このことからも教如上人をお支えしようとした湖北のご門徒の熱意が伺い知れます。
さらに、真廣寺に伝わる宗祖親鸞聖人御影は教如上人時代の裏書きがあり、このことから先の長浜教区御遠忌においては長浜市歴史博物館において展示されるということもありました。
つまり、眞廣寺のご門徒は、誰に命令されたわけでもなく、念仏の教えを聞くために、自分達の手で厳しい歴史をくぐり抜け、自分達が集うためのお寺を建てられたのです。そして念仏の教えを中心としつつ、この地を代々受け継ぎ、守ってこられました。このように、それぞれの真宗のお寺に、それぞれのご門徒が形作ってこられた歴史があるのです。
真宗では「檀家」とは言わず、「門徒」といいます。これは僧俗すべて「お念仏の一門の徒(ともがら)」であるということを表します。
数多くある仏教の宗派の中から、我々のご先祖は、親鸞聖人の浄土真宗の教えを自覚的に選び取られ、以来数百年間、思いを同じくする全国のご門徒と強力なネットワークを持ちながら、代々これを崇敬し、維持してこられたのです。これこそが浄土真宗のご門徒の姿であり、さらには眞廣寺のご門徒なのです。
そのことを意味を、改めて味わっていただきたいと思います。
法蔵館発行「こんなことがききたかった 真宗門徒質問帳 (山本 隆 氏 著)」を底本に編集・加筆し、寺報に掲載したものを転載しております。