問いと答え15 ・仏教から何を学ぶのですか?
住職法話>問いと答え>第15回 仏教から何を学ぶのですか?
問・この世の中には立派な人間になるために、多くの教育機関や施設があります。お寺は、その一つと考えてよいのでしょうか。
仏教の深遠な教えを聞き、私自身が善い人間になりたいとか、または多くの言葉を知って賢くなりたいと思って聴聞が始まるのでしょうが、仏教は人間を善人にしたり、賢人にしたりするものではありません。では、仏教を習うのは何のためかというと、「自己を習う」ことであり、我が身の真実の姿を明らかにするためなのです。
しかし、これは非常に厳しいことです。その人の教養や知性を一切はぎ取って、我が身の欲望や、現実に直面しなければならないのですから、恐ろしいことでもあります。そういう意味で、ときおり社会的地位の高い人や、世間で立派な人と呼ばれている多くの人から仏教が敬遠されるのもうなずけます。
しかし、こうした人間の虚飾を一切捨て去ったところが、仏教の出発点です。沢山の知識や教養を持ちつつ仏教を学んでも、仏教の教えがその人の心の中に沁むことも溜まることもありません。赤ちゃんが全てを吸収するように、純真無垢の自分に還ったときから、本当の聴聞が始まるのです。
聴聞とは2つの姿勢を表します。まず「聴」は、昔、もっと画数が多く、「聽」と書きました。耳へんのしたに「壬」という字が入ります。この壬とは立てるということを意味します。また、右側は「十・目・一・心」と上から綴りますが、この「十・目・一」とは「直」のことです。すなわち「まっすぐな心で耳をそばだてて聽く」という意味になります。
しかしどうでしょう。確かに一生懸命に聽き学ぶということは素晴らしいことですが、逆に「私はこれだけ学んだ」という驕りと表裏一体です。また「この話は前に聽いて知っている」としてしまい、それ以上聽く姿勢を持たないことにも繫がりかねません。さらにそうした努力を継続することに疲れてしまう人間の悲しい性分もあり、最終的になかなか徹底できません。
そこで「聞」の登場です。門がまえに耳と書きます。門は開いていれば誰でも通れます。辞書には「耳が声を受ける(耳受聲也)」といい、ただ聞こえるままに聞く姿勢をあらわします。これぞ純真無垢、この姿勢なら、同じ話を何度聞いても、そこできくことをやめてしまいません。これはとても大切なことです。同じ話でも人生の折に触れて響く場所は異なるのですから。その都度、身に響いてくるような新たな発見があることでしょう。
ここから気づかされることは、平素、そういう聞き方はできていますか?という問いかけでもあります。どちらに重きということではなく、聴も聞も、どちらも大事なのです。「聴聞」とはよく言ったものですね。
「仏法は無我にて候う」と蓮如上人は述べられていますが、仏教を聴聞するとき、理解しようとすることはとても大切ですが、そこに自分の考えを勝手に持ち込んではいけませんし、自分の都合で聴いてはいけないのです。逆に自分の持っているものを捨てて、仏教を聞こうとします。そうすることによって初めて、真実の我が身が言葉によって照らされ、ありのままに報されてくるのです。
特にもっとも気をつけるべきは、「自分が今までききかじった知識でもって一度聴いた話を”ああ、そのことか”と聞くことをやめてしまう」ことです。蓮如上人も「なにごとを聴聞するにも、そのこととばかりおもいて、耳へもしかしかともいらず、ただひとまねばかりの体たらくなりとみえたり(御文2-5)」と、それは単なる人まねに過ぎませんと、厳しくいましめておられます。
仏教とは、単に教養として言葉を覚え、身につけるだけに学ぶものではありません。また、自分の思想や立場を強くし、他者を圧倒するために学ぶものでもないのです。その様な思いで仏教を学ぶと、とんでもない間違いを犯すことになります。最初は目的を持たないと聴聞は始まりませんが、おかしな目的から始めると結局それは仏教ではなくなってしまうということに気をつけて下さい。
おわり
法蔵館発行「こんなことがききたかった 真宗門徒質問帳 (山本 隆 氏 著)」を底本に編集・加筆し、寺報に掲載したものを転載しております。