問いと答え16 ・真宗門徒の生活の心得とは?

住職法話>問いと答え>第16回 真宗門徒の生活の心得とは?

問・他の宗教は信者として日々の生活の心がけを細かく決めているようです。真宗の門徒の場合はどうなるのでしょうか。

1つは必ず勤行に志す、2つは必ず聞法に志す、3つは物忌みしないということです。

まず1つめ。真宗門徒の生活の証は、お内仏(おないぶつ=一般にいう仏壇のこと)で「正信偈」をお勤めしていることです。

お内仏(仏壇)は、家庭の中にあって家庭を超えた空間です。仮にお内仏がない生活を想像してみてください。家中どこに行っても日用品だらけ。そこでは非日常がなく、常に慌ただしい生活に埋没しています。ところがお内仏を安置することで、そこは瞬時に日常を超えます。これはお内仏のはたらきでもありますが、私たち一人ひとりに賜ったものでもあります。

よってお内仏のお参りと勤行は、家庭と家族の「聖」なる時間です。家族一人ひとりは、いつもあれこれと混迷と不安の中におり、それぞれいろんな問題を抱えています。それだからこそ、日に一度、わずかの時間でよいから、いろいろな問題から距離を「置いてみる」ことが必要なのではないでしょうか。そうすることによって、現実の問題に引きずり回されることなく、心に安らぎを取り戻すことができるのです。これは「あなた」の生き方の中心なのです。

2つめ。教えを聞くことを心がけねばなりません。お内仏のお参りも、お寺の行事に参加することも仏教を聞くことです。参拝・参詣は聞法と同じことなのです。

最近はラジオやテレビ、インターネット、また出版物もよいものが多くあります。こうしたメディアを通じて教えを聞くこともできますが、誰かと顔を合わせ、仏法の談義をしないと、結局ひとりよがり、自己満足になる危険性があります。顔を合わせること、膝を突きあわせること、これを「寄合・談合」といいます。

最近は談合というとあまりいいイメージがありませんが、「顔を合わせて話あいをし、互いの気持ちを確認する」という点では同じです。誰もが参加できるよう、仏事の談合はオープンに行うべきです。その最も開かれた場所であるべき所がお寺です。できるかぎりお寺にお参りしましょう。そうやってお寺をひらくのは住職だけではなく、その事を推進くださる方、ほかならぬ「あなた」なのです。

3つめは、それは現世の利益をいたずらに求めないこと、つまり迷信に拠らないことです。

近年さまざまな宗教がおこり、世間を騒がせたりもしています。本当の宗教がわかりにくい時代であると言えましょう。本当の宗教に遇わない限り、本当か偽物かを見分けることはできません。若い人が変わった宗教に入信し、親が驚き戸惑っている様子が報道されますが、これはそもそも年長の者が信仰・信心のことを曖昧にした結果です。

ここで少し「迷信」について考えてみましょう。

そもそも仏教では因果を説きます。しかし、因から果を見る(因果)という見方はしません。

なぜならその間に受ける「縁が無量」であるからです。

たとえばチューリップの球根を植えれば必ずチューリップが咲くとは考えないのです。なぜならそれまでに土の縁、日光の縁、水の縁、風の縁、温度の縁…さまざまな縁があります。それだけではありません。たまたま犬が掘り起こさなかった、たまたま子どもが植木鉢を割らなかった、たまたま天候不順でもあったけど大丈夫だった…すべてが「縁」です。これを考えだせばきりがなく、まさに縁は無量なのです。

だから真実の教えは果から因をたずねます(因果)。チューリップが私のところに届いたのは、もちろん、誰かが植えたチューリップの球根という因があるわけです。これがリンゴの種であるはずはありません。しかし、私に届いてくるのにどれだけの縁とご苦労があっただろう…そのように受け止めるわけです。そうすることで因・縁・果が説く仏法の道理を、まさに素直に身に受ける生活を営むのです。念仏はその無量の縁と、因をたずね、手を合わせる姿です。無量ですから、どれに感謝していいかわかりません、よって阿弥陀(amita=無量)のいのちに手を合わせるのです。

さてそこで迷信です。

迷信とは「因から果を見る」間違いの代表格です。黄色い財布を買えば幸せになる、壺を買えば幸せになる、このお経を唱えたら幸せになる、この供養をしておかないと不幸になる、友引に葬儀を挙げれば人が死ぬ、ひどいものになると、念仏をしないと地獄に落ちる(逆に念仏をすれば地獄に落ちるというのはもう論外です)…このように現世で説かれる「ご利益」とやらは、つまりすべてが邪見のかたまりです。

顛倒(てんどう=さかさまの意)という言葉がありますが、まさに因果のいただきかたが逆さまの世界です。人間の都合で読めもしない未来を思い描く…愚の骨頂とはこのことをいいます。この姿を宗祖親鸞聖人は「偽」とおっしゃいました。まさにいつわりの宗教が蔓延しているわけです。

そうやって、いい大人が迷信の虜になり、ご利益に右往左往するところを若者は醒めた目で見ているのでしょう。今、大人がいただけない教えを、どうして子どもの世代で受け止められるでしょうか。教えをつなぐのは、今を生きる「あなた」です。

ひとつ、付け足しておきますが、真宗にもご利益はあります。それは、因をたずねることによっていただくご利益です。たとえば、病に伏せったとします。現世の利益の場合、病を消すことにやっきになる、病を避けることにやっきになりますが、真宗の利益は少し異なります。そうやって私によってきた全ての出来事、幸・不幸がすべて「無駄でなくなる」のです。

病もそうです。死ですらそうです。すべては私に届いてきた果であり、その因とは、本願に出会ってほしいという願いであった…こういただけたとき、すべての事は私にとってプラスに作用します。これが真宗の利益、念仏のご利益です。

以上3点、言うことは簡単ですが、実行は難しいことです。せめてこうした観点から日常生活を見直せればと思います。

おわり

法蔵館発行「こんなことがききたかった 真宗門徒質問帳 (山本 隆 氏 著)」を底本に編集・加筆し、寺報に掲載したものを転載しております。