問いと答え17 ・各家庭にお内仏があるのはなぜ?
住職法話>問いと答え>第17回 各家庭にお内仏があるのはなぜ?
問・家にあるお内仏(お仏壇)は、おばあさんだけがお守りをしていて、ほかの家族はまるで関係がありません。いったいこのお内仏は何のためにあるのでしょう。
かつて誰かが、「人間一代、振り返ったら台所とトイレの往復の繰り返しだった」といわれたのを聞きました。
誰もが衣食住を豊かにと願い、努力してきました。そして、現在のわが国は、その願いをある程度実現しました。便利で快適な生活を営めるよう、いろいろな施設を整えてきました。それが文化的であり、人生の目的のように思っているからです。
しかし、台所とトイレの往復という面から見ますと、どれほど文化的な生活をしたとしても、失礼ながら本質的には動物と変わらないのではありませんか。何かが欠けているのです。
極端な譬えで申し訳ありませんが、犬小屋と、人間の家の本質的な違いは、どこにあるのでしょう。それは「拝むところに住んでいるか。拝むことのできる生活であるか」が、人間と他の動物との違いではないでしょうか。
では何を拝むのでしょう。
仏教ならば「本尊(ほんぞん)」です。本尊とは本当に尊いということです。では皆さんは日頃、何を尊び、拝んでいますか。
多くは「お金」ではないでしょうか。なにせ経済最優先の現代です。
藤場俊基先生(石川県)が仰います。「幾らお金が大切だからといってわが子が将来、貯金通帳を見てニコニコしている人に育てようとする親はまずいません」と。その通りですね。私たちはお金が大切とはいいながら、意識下でそれが本尊になり得ないことも知っているのです。
では「健康」はどうですか。昨今は健康ブームで、テレビでも健康こそ大切といいます。冗談で「健康が全てだ、健康の為なら死んでもいい(笑)」なんてありますが、実際そんなことが言えるのは健康な人だけです。回復の見込みがないほど病んだ人にそんな残酷なことが言えるでしょうか。
ならば「自分」はどうでしょう。時折そういう方も見かけます。自分教ですね。しかし一度決心した目標を三日も経てばどこかに放り出してはいませんか。ちょっと腹が立てば怒りをコントロール出来ないでしょう。自分を知れば知るほど、自分こそが最もあてにならない存在であることに気づかされます。
「命」。いのちはもちろん大切です。でも命が本尊だとすれば、一日一日その本尊は減ってゆくことになります。また必ず最期には失うものです。しかもいつ失うかわかりません。
「家族」はどうですか。誰しも家族は大切です。しかしその大切な思いがお互いを縛り、苦しめてしまうものです。「思いどおりで幸せ」なんて堂々と仰る方がありますが、かつてそういう方に対して「お気の毒さま」と仰った念仏者がおられました。
思いどおりとはつまり他の家族を虐げて生きているということです。思いどおりにならない最小単位が家族です。そして誰もが大切だという矛盾…大切であればあるほど、少しでも歯車が狂えば逃げ場のない苦しみの場と化してしまう。それが家族です。
宗教とは、あなたにとって「本尊」が何であるかを示す教えです。人生で本当に大事なものとは何なのか、と。人はたった十数年、数十年で得た知識だけを価値基準にします。それが全てだと思い込みます。人間の知識による思い上がりはたいしたものです。数千年、数万年の出来事を、さも見てきたかのように語ることができます。実はその知識こそが、本尊を見誤る闇であり、知識の足の裏がどこに着いているのかを問いかけるのが宗教であり、その願いを表現するのが「本尊」です。
宗教のない人間は、単にずる賢い動物に過ぎませんし、宗教があっても利用されるならば、真実の宗教を知らない愚か者です。
浄土真宗の本尊は「南無阿弥陀仏」です。人生のあらゆる出来事に無駄はなく、計り知れない。今を生きるあなたは、そのままで尊いのだよ、と呼び続けておられます。人間が尊いのではなく、「本尊の呼びかけに応え、拝むことが尊い」のです。
本尊を問い、本尊を知り、本尊に真向かいになる。そこで南無阿弥陀仏と手を合わせ拝む場所がお内仏なのです。
おわり
おないぶつ
真宗では「お仏壇」とはいいません。「お内仏(おないぶつ)」といいます。
お内仏とは「うちに迎えた仏さま」ということです。どこから迎えたのか…それはご本山であり、お手次のお寺であります。そういう繋がりも名に示されてある、ということです。
法蔵館発行「こんなことがききたかった 真宗門徒質問帳 (山本 隆 氏 著)」を底本に編集・加筆し、寺報に掲載したものを転載しております。