不安から開かれる道
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2020年5月1日発行・真宗大谷派難波別院発行のリーフレットに寄稿させていただいた原稿です。
世間はちょうどコロナウイルスの蔓延により緊急事態宣言が発令されて3週間経過しておりました。法座や法要も中止が相次ぎ、寺院から、ご門徒から不安の声が寄せられていました。そんな中、何か配れるものをという要望を受けて書かせてもらいました。
「不安から開かれる道」難波別院教務部長・ 竹中慈祥
社会に「不安」が蔓延(まんえん)しています。「この先どうなる」「もっと悪くなるのでは」「死んでしまうかも」と、人類の叡智(えいち)を持ってしても拭えない不安に押しつぶされそうです。それに仏教はどう答えるかと言うと、とても冷静で「不安は解消しないのだ」と教えます。
不安を仏教では怖畏と言います。『華厳経(けごんぎょう)』というお経はそれを五怖畏(ごふい)と分けます。「不活畏(ふかつい)・堕悪道畏(だあくどうい)・悪名畏(あくみょうい)・死畏(しい)・大衆威徳畏(だいしゅういとくい)」の五つです。
さしずめ冒頭の不安は「不活畏・堕悪道畏・死畏」、残る「悪名畏・大衆威徳畏」は、「悪口を言われるのではないか」「大勢の前で恥をかかされるのではないか」という不安です。よくよく考えてみれば、怖畏はいつの時代にもあるものです。食べていけなくなる(不活畏)・世の中が悪くなる(堕悪道畏)なんて、毎日のニュースで見聞きしたことばかり。人類が常に不安を持ち歩いてきたことを、仏教は何千年も前からお見通しなのです。たぶん今の騒ぎがおさまれば、人はまた新たな不安を生み出すことでしょう。
同じ『華厳経』に「歓喜地(かんぎじ)を得て、すなわち五怖畏を過ぐ」と、不安を乗り越える道が説かれていますが、「菩薩さまと同じように歓喜地を得なさい」という意味です。しかし、歓喜地は「菩薩さまの永い修行がいよいよ最終段階に入る少し手前」。生身の人間には到底到達できない境地です。
これはとある座談会の席のこと。Aさんは様々な不安を抱え、仏教に救いを求めての参加でした。「来ようか来ようまいか悩みました。参加しても不安は消えなかったけど、来てよかった」と、Aさん。そこへ日頃から元気な聞法者のBさんが「それが初歓喜地(しょかんぎじ)じゃないの!よかったね」と励まされたのです。表現が難しいため、Aさんはキョトンとされていましたが、横で聞いていた私がハッとさせられました。そうか、人はどこまでも不安を解消することばかり考え、涙ぐましい努力をするものの、自らが不安を生み出している以上、それを消すことはできない。しかしそれをそのまま受け入れてくれる人、共に歩む人と出遇えた時、不安は不安のままに生きてゆける道が向こう側、つまり如来さまの側から開かれることがあるのだな、と。
本願寺第8代・蓮如上人は「疫病によって私たちが初めて死ぬわけではない、生まれたからには死に向かっているので、驚くことはない(取意)」と言い切られます。宗祖親鸞聖人も飢饉の際、「多くの人が亡くなられたのは気の毒だけれど、生き死にとは移ろい変わる世の中の真実だ、と如来さまがおっしゃっておられるのだから、驚くことはない(取意・『末燈鈔』より)」とおっしゃいます。
それは、どうせ死ぬとか、死んでも構わないという運命論や開き直りではありません。「不安から逃げず、不安に負けて無用に他者を責めたり争ったりせず、むしろ不安をきっかけに、いつかは終わる我が人生を見つめ直し、共に今を生きよう」と言う励ましのお言葉なのです。
多くの縁が重なり合うこの社会。生きていればいろんなことがあるものです。それが如来さまの説かれる真実です。ならば許される範囲で身近な人と不安を語り合い、苦しみを分かち合い、共に生きて乗り越えていこうではありませんか。南無阿弥陀仏。
難波別院発行「不安から開かれる道」
【参考】疫癘(えきえい)の御文(おふみ)
当時このごろ、ことのほかに疫癘とてひと死去す。これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず。生まれはじめしよりしてさだまれる定業なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。しかれども、いまの時分にあたりて死去するときは、さもありぬべきようにみなひとおもえり。これまことに道理ぞかし。
このゆえに、阿弥陀如来のおおせられけるようは、「末代の凡夫、罪業のわれらたらんもの、つみはいかほどふかくとも、われを一心にたのまん衆生をば、かならずすくうべし」とおおせられたり。かかる時はいよいよ阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、極楽に往生すべしとおもいとりて、一向一心に弥陀をとうときことと、うたがうこころつゆちりほどももつまじきことなり。
かくのごとくこころえのうえには、ねてもさめても、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏ともうすは、かようにやすくたすけまします、御ありがたさ、御うれしさを、もうす御礼のこころなり。これをすなわち仏恩報謝の念仏とはもうすなり。あなかしこ、あなかしこ。
延徳四年六月 日
(『御文』四帖目 第九通/『真宗聖典』827頁)