コロナ騒動と五十肩

住職法話 > その他>コロナ騒動と五十肩

2021年5月・コロナ禍で永代経法要が2年連続中止となられた御寺院様より、執筆依頼をいただきました。

コロナウイルス感染症によって約2年間も私たちは振り回されました。が、それとて一つの大切な縁だったのかもしれません。

コロナ騒動と五十肩・ 竹中慈祥

 皆さん、はじめまして。御住職様からずっと以前よりお声がけを賜りながらもコロナウイルス感染症の拡大によってお会いできずにおりますが、このように原稿にてお会いできますことをありがたく思いますとともに、皆様のご健勝をお祈り申し上げるばかりです。

 さて、緊急事態宣言も3回目となり「巣ごもり」の毎日が続くわけですが、そんな中、私はタイトルにも掲げました「五十肩」になってしまいました(厳密には五十肩のような症状です)。これ、なったことのある人しかわからない辛さですね。夜中2時間ごとに肩の痛みで目が覚めるのです。激痛で服も満足に着られません。困りました。原因は巣ごもりからくる運動不足だろうか、いや、加齢だろうかなどとと思いつつ、整形外科の先生に診ていただいたのですが、漢方を処方されただけ。一向に回復しません。「たかが五十肩、ほっといたら治るがな(笑)」と周りからも言われるのですが、本人にしてみればたまったものではありません。

 そこで少し遠いのですが、以前お世話になった整骨院に相談に行きました。そうしたら「悪いところは肩ではなく腰ですよ」と言われたのです。びっくりしました。いやいや先生、痛いところは肩ですよ?腰なのですか?と聞きますと、その先生は「痛いところだけに目を向けてはいけません、本当の原因が必ずあります」と言って、腰の処置をしてくださったら、なんと、激痛が和らいだのです。そもそも腰痛持ちだったこともありますが、これには驚きました。

 結局は五十肩そのものというよりも、腰からくる姿勢の悪化が、酷い肩こりを起こしていたそうで、五十肩一歩手前の状況だったようです。言われてみれば巣ごもりで細かい作業ばかり、姿勢も悪くなっていたのがそもそもの原因でした。原因がわかればあとは治療あるのみ。今は少しずつ回復しつつあります。

 さて、こりゃ一体なんの話かいな?と思われたかもしれません。が、こんなところにも仏法があるのです。例えば私たちは問題に出くわすとその問題ばかりを見つめ悩みます。しかし本当は問題を呼んださらに奥の問題があり、それをたどっていくと実は思いもしないところから問題が起きていた、ということがあります。その問題の連鎖一つひとつを「縁」と申します。縁には良し悪しはなく、自分でも選べないのですが、常に自分が生み出しているものです。その細かい連鎖が繋がっていつしか表に現れ出てくるものです。私たちは表に出てきた問題点だけをなんとかしようと頑張りますが、実際にはもっと奥深いところから見つめる必要があるようです。それが簡単にできないから大変なんですけれどね。私の五十肩で申しますと、人間には206もの骨があり、600を超える筋肉があります。そのいずれもが密接に関わり合ってこの私の体を構成してくれています。痛いところだけに目を向けていては解決できなかったことでしょう。

 昨今のテレビやインターネットでは、どうも表面に現れた人の過ちや事件ばかりを取り上げ「あいつが悪い、こいつがだめだ」などと言っているように見えますが、問題の根本を見落としているのかもしれません。仏法は問題の表層だけではなく、広く深い目線で世の中を捉えようとすることを教えてくれます。実はそうすることで苦しい心が少し軽くなります。問題そのものの解決にはつながらないかもしれませんが、問題に振り回されにくくなるのです。

 龍樹菩薩さまの有名な「指月のたとえ」に、私たちは月を指差して見るとき、指の先ばかりに気が散ってしまい、肝心の月を見ることができていないといいます。この「月」は真実の教え、指は「言葉」です。言葉に振り回されて問題の本質を見失わないようにという例えなのです。曇鸞大師はさらに「その月こそがお念仏なのだよ」と教えてくださいます。お念仏を言葉で理解しようとしたり、役に立つかどうかと考えると、それは結局「指の話」で終わってしまうからです。

 さてさて、そういただいてみますと、このコロナウイルス感染症騒動と、それにまつわる人々の右往左往、色々学べることも多いのではないでしょうか。南无阿彌陀佛