ただ念仏のみぞまことにておわします
住職法話>大和大谷別院寺報>第1回 ただ念仏のみぞまことにておわします
住職は2017年10月3日より2019年4月1日まで、奈良県大和高田市にある「大和大谷別院」の輪番事務取扱(代表役員代務)を仰せつかりました。短い期間でしたが、ご門徒さんと直接触れ合う幸せな時間をいただきました。当時発行の寺報1面に掲載した小話を掲載します。
角界の暴力事件が世間で騒がれております。報道でも、街頭インタビューでも、口々に「【真実】を知りたい」とおっしゃいます。しかし私はここに違和感を覚えてならないので、以前、古田和弘先生に教えていただいた、【事実・現実・真実】の3つの言葉で仏教的に考えてみたいと思います。
たとえば雨が降るとしましょう。これは単なる気象現象として雨が降っているわけです。天気予報などで気圧配置や前線の移動を告げてくれますが、こうして大きな流れの中で、誰がはたらきかけるでもなく動いている事象。これが【事実】です。
そして一方で私たちは雨が降ったときに「雨が降って都合が良い・都合が悪い」と見ています。これが【現実】です。目の前の出来事に良し悪し、すなわちそれぞれの都合(煩悩)を入れて見ているわけです。顧みれば私たちは常に自分の都合でしか、物事を見ることができませんね。事実が見えていないわけです、よって結論。「煩悩で眼が曇って事実すら見えない人間に、そのさらに深遠なる【真実】を見ることはできない」。これが仏教の人間観です。
「煩悩は内なる他者」と呼ばれます。自分の内にあるわけですが、自分でもそうそう制御できないものです。それが飲酒によって解放され、暴力となったとあれば、おそらく真実とやらは当事者ですらよくわからないのが事実ではないでしょうか。あとはせいぜい、それぞれの現実を持ち寄って「事実のようなもの」に出遇うしか道は開けません。
『歎異抄』の中で親鸞聖人は「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」とおっしゃったといわれます。
師走となり、いよいよ煩悩で毎日右往左往している私たちです。いよいよそれを案じてくださる阿弥陀様(真実)に手を合わせ、お互いに現実を意識し、事実に目を凝らして生きるよりほかありませんね。南無阿弥陀仏。
大和大谷別院寺報 2017年12月号掲載分(一部修正)