待つ長さ 過ぎ去る速さ 生きる今

住職法話>大和大谷別院寺報>第2回 待つ長さ 過ぎ去る速さ 生きる今

住職は2017年10月3日より2019年4月1日まで、奈良県大和高田市にある「大和大谷別院」の輪番事務取扱(代表役員代務)を仰せつかりました。短い期間でしたが、ご門徒さんと直接触れ合う幸せな時間をいただきました。当時発行の寺報1面に掲載した小話を掲載します。

年が明け、新しい日が始まりました。年末までのせわしさもひと段落し、静かにお正月をお迎えのことと拝察申し上げます。旧年中はなにかとお世話になりありがとうございました。今年も何卒よろしくお願い申し上げます。

さて私たちの感覚として、一説には生まれてから二十歳までに感じる時間の長さと、その後の人生全体で感じる時間の長さはほぼ同じなのだそうです。どこまでも感覚の話ですから真偽はともかくとして、それほどまでに人間は年々時間の感覚がおろそかになってゆく生き物なのかもしれませんね。

詠み人はわかりませんが、昔見たお寺の掲示板でこういう言葉がありました。

待つ長さ 過ぎ去る速さ 生きる今

さらりと読めば、いまかいまかと未来を待ち遠しく思っていたが、それも目の前に来ればあっという間に過ぎ去って行く…そんな意味かと思います。子どものころ、歌いながら待ち焦がれた正月も迎えてみればあっという間。大人になった今でも、諸事「過ぎ去る速さ」を痛感いたします。

ただ、このことばには最後に「生きる今」と続きます。

一般的には時間の流れを書き表すとき「過去・現在・未来」と書きますが、御文でも蓮如上人は「過去・未来・現在」と書かれます。現在が最後にくるのです。たかが順番、という話ではありません。これは「去来現」というお経の表現に呼応しておりまして、未来にあこがれ、過去を忘れ、そして現在をついおろそかにしてしまう私たちに「いまの大切さ」を示してくださっているのではないでしょうか。

うっかり過ぎ去らせてしまいそうな現在、私たちは一歩一歩大切に生きているでしょうか。「今を意識して生きること」。過去を輝かせるのも未来が啓(ひら)かれるのも、始まりはいつも「いま」なのです。共々にかみしめてまいりたいものですね

大和大谷別院寺報 2018年1月号掲載分(一部修正)