大人は何になるんですか

住職法話>大和大谷別院寺報>第3回 大人は何になるんですか

住職は2017年10月3日より2019年4月1日まで、奈良県大和高田市にある「大和大谷別院」の輪番事務取扱(代表役員代務)を仰せつかりました。短い期間でしたが、ご門徒さんと直接触れ合う幸せな時間をいただきました。当時発行の寺報1面に掲載した小話を掲載します。

あっというまに2月となりました。昔から1月は「いく」2月は「にげる」、3月は「さる」と言いますように、年末から春までのこの時期は特に時間が経つのが早く感じます。

以前、宮戸道雄先生(滋賀県・彦根市)に聞いたお話です。小学生ぐらいの子どもが「子どもは大人になるけれど、大人は何になるんですか」と尋ねたそうです。何気ない問いかけですが、大人からすれば、ドキッとさせられる問いだとは思いませんか。

おそらくその子は日頃「大人になったらわかるようになる」「立派な大人になりましょう」などと言われてきたのでしょう。だからおそらく、子どもにしてみれば「私たち子どもが大人になるのはわかりました、じゃあ実際に大人になったとして、その先はどうなってゆくのでしょう」と、素朴な疑問を持ったのだと思います。でも尋ねられた大人からしてみれば、その素朴な疑問の向こう側から「さて、子どもが大人になるのに20年、大人はそれからずっと何十年と生きるわけだが、果たしてお前は本当に日々成長できているのか、成人してからというもの、全く学びも成長も深まっていないのではないか」と厳しく問いかけられているようです。

省みれば環境問題、少子高齢化、無縁社会、原発問題、災害復興…学び、そして成長し、正しい判断ができるようになったはずの大人たちが次の世代に残そうとしているものは一体何なのでしょう。それを思うとき、後ろめたさを感じるのは私だけではないはずです。

子どもが大人になるのに必要なのは、大人になるための知識でしょう。しかし、大人が必要なものはそればかりではありません。人間の知識を超越して、向こう側から私たちを願ってくださる不可思議の世界に目覚め、南無阿弥陀仏と手を合わせられる生活が必要なのだと思います。今こそ、目に見えてわかりやすく、捉えやすい「理知分別」の限界を思い知る時代なのかもしれません 。

大和大谷別院寺報 2018年2月号掲載分(一部修正)