ちゃわんの模様、いえますか?
住職法話>大和大谷別院寺報>第4回 ちゃわんの模様、いえますか?
住職は2017年10月3日より2019年4月1日まで、奈良県大和高田市にある「大和大谷別院」の輪番事務取扱(代表役員代務)を仰せつかりました。短い期間でしたが、ご門徒さんと直接触れ合う幸せな時間をいただきました。当時発行の寺報1面に掲載した小話を掲載します。
厳しい冬の寒さも和らぎ、春が近づいてきました。春といえば出会いと別れを連想しますが、出会いといえば、以前こんなお話に出会ったことがあります。それは教育者であり念仏者でもあった東井義雄氏のお話です。
東井氏と同じ教育者であり、また民藝運動の版画家でもあった長谷川富三郎氏から贈られた著書を東井氏が読まれていたときのこと、ふと「毎日ごはんを食べている、茶わんの模様がいえますか」という言葉に出会われました。
東井氏は「はてな、わしの茶碗の模様、どんなんだったかいな」。どうも思い出せません。自分だけかと思われ、奥さんに「お前のご飯の茶碗の模様、ちょっというてみい」とたずねてみれば「さあ?」。
皆さんはいかがでしたか。恥ずかしながら、私も思い出すことができませんでした。
東井氏はこう続けます「毎日キスしながら、相手の模様が言えない。(中略)粗末な出会いをやっとるんです。茶碗はこれでもゆるしてくれますが、人間の出会いも近頃こういうことになっとるんじゃないでしょうか」と。
「出会い」は、単純に顔を合わせているわけではありません。その瞬間、瞬間にとてつもない互いの背景(縁)の重なり合いが起きているのです。この手、この足、この顔は、誰が作ったのでしょう。科学的には「DNAという設計図のわざ」だとしても、その設計図は誰が作ったのでしょう。またその設計図どおりの姿を保つため、これまでどれほどのイノチを食べ、どれだけの人(イノチ)と関わったでしょう。
茶碗ひとつを見ても、不可思議な出会いのはたらきに包まれているのが私たちです。そうして日々「出遇い」つづけているのです。それを実感することこそ「他力」と申します。だのに私たちは毎日「自分の力(自力)という思い込み」で生きているのではないでしょうか。
春を目の前に、ふとそんなお話を思い出しました
大和大谷別院寺報 2018年3月号掲載分(一部修正)