如来常住

住職法話>大和大谷別院寺報>第5回 如来常住

住職は2017年10月3日より2019年4月1日まで、奈良県大和高田市にある「大和大谷別院」の輪番事務取扱(代表役員代務)を仰せつかりました。短い期間でしたが、ご門徒さんと直接触れ合う幸せな時間をいただきました。当時発行の寺報1面に掲載した小話を掲載します。

散れば咲き 咲けばまた散る

春ごとの 花のすがたは 如来常住 一休

『みなさんにとって“生活”とは?』…かつてこう問われたとき、私は自分の手帳を思い起こしました。それこそ朝から晩までぎっしり予定が詰まっていて、「アレをして、コレをして、それからソレもしておかないと…」毎日予定に沿って目まぐるしく動き回る、これが生活というものだろうと思ったからです。

この問いを発されたのは故・訓覇信雄師ですが、師は「そんなものは生活ではない」と言われます。「生活というけれども「生」というのはいのちである(中略)。「活」というのは、これは毎日朝から晩まで、月給とか家族とかそういう問題に明け暮れしてひまがないこと。ガツガツしていきていること。これを活という。そしてたいていの人は人生はそれだけだと思っている。(白馬社『傑僧・訓覇信雄より』)」

私がこれこそ生活、と思い描いたものは単なる「活動」にすぎないということです。人間が本当に「生きて」活動するということ、つまり「生きているということ」が素地にならない毎日は、ただ活動して終わりじゃないか、ということなのでしょう。言われてみれば、人より良いものを手に入れ、人より良いものを食べたいという欲求生活は、ただ活動をこなし、活動の充足を願うばかりのように見えます。そして多くの宗教はこの活動を満たすことだけを応援しているかのように見えます。

起きていても、寝ていても、私たちは「生きている」という素地の上にいます。そうして「散れば咲き、咲けばまた散る花」のように、かわるがわる願いを受け継ぎこの世を生きてきたのです。それぞれの花(ひとりひとり)の願いはもちろん大切ですが、その花を支えるより大きな願い、すなわち誰しもが等しく支えられている如来の本願の力に思いを寄せることが、真に生活を豊かなものとしてくれるのではないでしょうか。今月の言葉からふと、そんなことを思いました

大和大谷別院寺報 2018年4月号掲載分(一部修正)