なにものが 苦しきことと 問うならば

住職法話>大和大谷別院寺報>第6回 なにものが 苦しきことと 問うならば

住職は2017年10月3日より2019年4月1日まで、奈良県大和高田市にある「大和大谷別院」の輪番事務取扱(代表役員代務)を仰せつかりました。短い期間でしたが、ご門徒さんと直接触れ合う幸せな時間をいただきました。当時発行の寺報1面に掲載した小話を掲載します。

なにものが 苦しきことと 問うならば

人をへだつる 心と答えよ〜良寛〜

子ども好きで知られる良寛さん。実は若い頃のことはあまり分かっていないそうです。その理由は、良寛さんが住むところや属する組織にこだわらなかったためで、記録がないのだとか。飄々とした良寛さんらしいお話ですね。

ただ、そんな彼にも強いこだわりの側面がありました。それは「書」です。かつて書道の師匠から「書は建築である」と教えられたことがあります。一本の線、一つの点を打ち損じても書全体が崩れてしまうから建築に例えられたのでしょう。強いこだわりがなければ書をつきつめることはできません。

さて「こだわり」といえば現代人はすべての面倒を取り去ることにこだわってきました。あらゆるものをサービスに換算し、計算して生きてゆける時代になりました。たとえばネットで買い物をすれば、誰の助けも借りる必要がなく、また、わざわざ誰かと会話をしに出かける必要もありません。ニュースも、娯楽も、すべてが家に居ながら手に入る、そんな究極的に便利な社会がとうとう実現しつつあるのです。

ただそういった便利な社会を作っておきながら、反面で現代人は関係性に飢えています。テレビ特集で田舎暮らしや、山村に生きる人が紹介され、「絆」が叫ばれるのもその現れではないでしょうか。切り捨ててみたり、懐かしんだり。なんとも忙しいことですね。人生において「面倒な関わり」と「人の温もり」は紙一重。両方が大切なのです。だのに私たちはどうしていつも、その一方だけを都合よく選び取ろうとするのでしょう。

良寛さんがおっしゃるように、私たちの苦しみは、どこか外から来るのではなく、人や物事を「へだつる」自身の生きる姿勢にあるように思います。良寛さんのように「こだわらないこと」「こだわること」の両側面を見つめてゆけないものかと思う今日この頃です。

大和大谷別院寺報 2018年5月号掲載分