乗れば人 歩けば車 邪魔になり

住職法話>大和大谷別院寺報>第7回 乗れば人 歩けば車 邪魔になり

住職は2017年10月3日より2019年4月1日まで、奈良県大和高田市にある「大和大谷別院」の輪番事務取扱(代表役員代務)を仰せつかりました。短い期間でしたが、ご門徒さんと直接触れ合う幸せな時間をいただきました。当時発行の寺報1面に掲載した小話を掲載します。

乗れば人 歩けば車 邪魔になり

私の自坊は滋賀県ですが、集落の道は狭く、車が通ると人は道をあけないと通れないほどです。ある日のこと、そんな狭い道で自動車と出くわしました。徒歩でしたので、細い段の上に乗って道を譲ると、あいさつもなく走りさりました。私は「なんちゅうやつや。車で狭い所に来ておきながら」と腹を立てた次第。

ところが別の日、私が自動車で出かけたときのこと、渋滞で遅刻しそうになりました。ようやく近くまで来たものの、狭い道の真ん中を悠然と歩いておられる方が。どうやらこちらには全く気がつかないご様子。すでに約束の時間はギリギリ、クラクションを鳴らしてびっくりさせてもと思い、結局イライラしながら後ろを付いていきました。内心は「もうちょっと気をつけて歩けよー」と腹を立てつつ。

さて「徒歩の私」も「自動車の私」もどちらも同じ私ですが、どちらの側にあっても腹を立てています。いったい誰がそんなに邪魔だというのでしょう。どこまでも「自分の都合・自分ファースト」で他者を評価し、選別する私たち。そんな中で互いに排除し排除され、いつしか人間であることを見失った社会を作る…それを地獄というのではないでしょうか。「私たちは地獄を持ち歩いている」と教えられたことがありますが、そのとおりですね。

現代人は怒りっぽいといわれます。ただその怒りは、常に自身の足もとから生み出しているのだと気づく事が大切なのです。「南無阿弥陀仏」の御本尊は、そういう人間を超越して長い時間感覚と広い空間感覚をもたれ、人間のことを「いたずらもの」とあたたかく見守ってくださっています。

省みれば世間を騒がせている日大アメフト部の監督もコーチも、そして選手も、はたまた財務官僚も、立場は違えど私とみな同類。テレビで彼らの批判を繰り返す人々も、これまた同類。こう思って見てみると案外腹もたたず、こころ平和に過ごせるじゃないかと感じる今日この頃です。

大和大谷別院寺報 2018年6月号掲載分