りきみを抜くちから

住職法話>大和大谷別院寺報>第16回 りきみを抜くちから

住職は2017年10月3日より2019年4月1日まで、奈良県大和高田市にある「大和大谷別院」の輪番事務取扱(代表役員代務)を仰せつかりました。短い期間でしたが、ご門徒さんと直接触れ合う幸せな時間をいただきました。当時発行の寺報1面に掲載した小話を掲載します。

ほんとうの力(ちから)は

力(りき)みをぬく

力(ちから)である

かつてテレビの特集でみた独居老人で、あれこれとご自身の身の回りを整理され、葬儀の準備や納骨先まで決めてしまい「これで老後の設計は大丈夫」と胸を張っておられる姿を見ました。他人に迷惑をかけたくない、誰かの世話にはなりたくないのだとおっしゃるのですが、私は「現代人の孤独と苦しみはこういうところにあるなぁ」と感じました。

現代人はどこまでも「我という理想像」を握り締めます。人に迷惑をかけることは理想ではない、他人に甘えることはできない、自ら努力することこそ美しいと、精一杯、力(りき)むわけです。だからふと理想像から外れてしまったひとは、許すまじと徹底的に暴き、叩き、矯正しようとします。それがテレビやインターネットに見える世相ではないでしょうか。

今年も3.11が巡ってきます。あの災害で「想定」という言葉はどんなに空虚だったかを知ったはずなのに、相変わらず私たちは理想の想定に余念がありません。故・高光大船師は『説明と談義と『ねばならぬ』で生き』る私たちの姿を悲しまれました。まさに私たちは自分の正しさへの「説明」と、相手がいかに間違っているかという「談義」、そしてこうでなければならぬという「理想」のために力み合っております。

理想なんて本当は一人ひとり異なるのが普通なのです。異なる理想を持つもの同士、互いを認める生き方はできないものでしょうか。むかし師に「人と仲良くするには弱みを見せることだ」といわれたことがあります。弱さを隠し、強さにしがみつくことは果たして本当の強さなのでしょうか。

仏法ではこういう姿について、蚕が自らはきだした絹で自分の殻に閉じこもる姿にたとえ、「蚕絹自縛(さんけんじばく)」といいます。誰が誰を限定し、縛り付け、苦しめているかというと、実体のない理想に対して力んで生きているこの私です。

力みを抜き、強さも弱さもあるがままに生きるということがほんとうの力です。さて、自らを縛ってはおられませんか。


大和大谷別院寺報 2019年3月号掲載分