住職法話>大和大谷別院寺報>第15回 喰うて稼いで寝て起きて
この歌はあの〝とんち〟で有名な一休さん(一休禅師)の歌だそうです。世の中喰って稼いで寝て起きて、あとは死ぬだけとは身も蓋もない歌ですね。人によっては「人生それだけやない、衣食住だけちゃうわ!」と反論されそうだが、果たして本当にそうでしょうか。
以前にも紹介しましたが、故・訓覇信雄氏は「生活とは何か」と問われました。改めて自分に問い返してみてはどうでしょう。私にとって生活とは?おそらく朝起きてから、さてあれして、次にこれして…と、朝起きてから夜寝るまでずっとこの次にやることばかりが出てくるでしょう。それがつまり「喰うてかせいで寝て起きて」ということです。訓覇先生に言わせればそれは「活動」に過ぎなくて、ほんとうの生活でもなんでもないと。ところが残念なことに、世の中の多くの人は生活といわれれえば「あれしてこれして」ばかりです。一休さんの手のひらの上で踊っているようですね。
ではほんとうの生活とはなんでしょう。それは「生きて」「活動」していることに気づくことです。今、生きていることの意味が本当に自分の身に響いてこなければ、私たちはこの歌のとおり「喰うてかせいで寝て起きて」人生を終えるわけです。蓮如上人と交流の深かった一休禅師は、その言動から何かと誤解されることが多かったそうですが、この歌もそうです。一見、絶望的な表現をとっておりますが、よくよく味わえば私たちの滑稽な日常のありさまをユーモラスに、しかし警告を発しながら照らし出してくださっています。
阿弥陀様の本願は、いったい「何が愚かすらわからない」愚かな私を目当てとしておられます。毎日毎日「おまえはそのままでいいのか、本当にいいのか、空しくはないのか」と呼び掛けてくださいます。その声は本当にかすかな声なので、ふだん気がつくことがありません。
だから親鸞聖人はそんな私たちのためにお念仏を残してくださいました。お念仏は向こうからのかすかな呼びかけに答える唯一の方法です。
ただ”死ぬばかり”ではない人間の歩みは、一見頼りなさそうなお念仏から始まるのです。
大和大谷別院寺報 2019年2月号掲載分