にぎって はなして むこうから

住職法話>大和大谷別院寺報>第14回 にぎって はなして むこうから

住職は2017年10月3日より2019年4月1日まで、奈良県大和高田市にある「大和大谷別院」の輪番事務取扱(代表役員代務)を仰せつかりました。短い期間でしたが、ご門徒さんと直接触れ合う幸せな時間をいただきました。当時発行の寺報1面に掲載した小話を掲載します。

にぎって はなして むこうから 〜訓覇信雄〜

あけましておめでとうございます。旧年中は大和大谷別院の諸事業・諸行事につきまして、なにかとお世話になりありがとうございました。本年も何卒よろしくお願い申し上げます。

さて今月のこの言葉ですが、以前にとある推進員さんから教えてもらった言葉です。故・訓覇信雄氏がよく語っておられた言葉だそうで、文献があるわけではありませんが、まことに仏法の味わいをよく表した言葉だとはおもいませんか。

これはわたしなりの解釈ですが、〝にぎって〟とはおそらく人間の知恵(ちえ)に通じると思います。「恵」の字は「糸車」、つまり「糸車のように知識を身に巻きつけ、理解し、覚え、活用する」という意味です。この字をお名前にお持ちの方は、その人生においてよくよく知識を得ておくれよ、と願われているわけです。

ただいつも申しますように、人間は大切なものごとの使い方をよく間違えます。知識もそうです。本来生活を豊かにしてくれるはずの知識を「にぎりしめ」、はかれもしない知識の量を推しはかり、互いに比べ、他を切り捨て、そのうち自分までをも見捨てます。また自分にとって手に余る知識なら「難しい」と都合よく放り出したりもします。

一方で〝はなして〟とは、仏の智慧(ちえ)に通じると思います。「慧」の字はその字形から2本の箒(ほうき)を表します。2本も箒をつかって何をするかと申しますと、これまで大切に積み重ねにぎりしめた知識を一旦掃いてどけて「てばなして」、知らずしらずうずもれさせてしまっていた本当に大切なことに気づいてみましょうというのです。

親鸞聖人は「ひごろのこころにては往生かなふべからず」と仰いました。我々の〝ひごろのこころ〟といえば何でもにぎりしめるばかり。毎日毎日、テレビや新聞、インターネットでは知識をにぎりしめたものどうし、互いに罵り合う姿ばかりを目にします。

金子大榮氏は『お浄土とはどういうところにあるか、というと、現生というものを「置いてみる」場所』 と言われます。現生とは私の今の生きざまのことです。まさににぎって・はなして・むこう(浄土)から。新しい元号を前に、じっくりいただいてみたい言葉ですね。

大和大谷別院寺報 2019年1月号掲載分