住職法話>大和大谷別院寺報>第13回 人間は頭で生きているのではない。
新聞や雑誌のついつい読んでしまうコーナーのひとつに「悩み相談」コーナーがあります。識者の明確な答えに感心させられたり、相談者の悩みを見て皆いろんなことで悩んでいるのだなと共感したり、またはかつての自分自身がほんのちょっとしたことでも、まるでこの世の終わりのように絶望していたなぁと省みてみたり。
さて、以前どこかで聞いた話ですが、ある女性が絶望の末自殺を決意したそうです。死ぬ前にせめても、と髪をとかし、爪を綺麗にして自殺を試みたのですが、どうしても死ねず、一旦は思いとどまったそうです。しかししばらくたってやはりまた自殺願望が頭をもたげ、前回と同じように髪をとかしていたら、ふと爪が髪にひっかかりました。その時、「自分は死のうとしているのに身体が生きようとしてくれている」と気づいたそうです。その続きは知らないのですが、おそらく女性は自殺を踏みとどまったことでしょう。
世界中の悩める一人ひとりにおかけする言葉など持ち合わせておらない私ですが、あえて経験上申し上げるなら、どれほど絶望してもこの身体が生きようとしてくれているかぎり、この世に存在することを「望まれている」ことは一人ひとり明らかです。だから「安心して悩んでほしい」と申し上げたく思います。
いったい誰から私は「望まれている」のかといえばそれはほかならぬ「自分自身」といういのちの存在です。我々は自分でも気づかないほど深く広い奥底から支えられて生きています。だから生まれてきたのです。そして今も生き続けているのです。そういう存在全体を感じる器官が人間には備わってます。ただし、それは「頭」ではありません。
頭で絶望するのは簡単なのです。しかし存在の深さに気づけるかどうかはとても難しいことです。
最後になりましたが、1年間、お世話になりありがとうございました。どうぞ良いお年をお迎えください。
大和大谷別院寺報 2018年12月号掲載分