道光明朗超絶せり

住職法話>大和大谷別院寺報>第12回 道光明朗超絶せり

住職は2017年10月3日より2019年4月1日まで、奈良県大和高田市にある「大和大谷別院」の輪番事務取扱(代表役員代務)を仰せつかりました。短い期間でしたが、ご門徒さんと直接触れ合う幸せな時間をいただきました。当時発行の寺報1面に掲載した小話を掲載します。

道光明朗超絶せり

清浄光仏ともうすなり

ひとたび光照かぶるもの

業垢をのぞき解脱をう 〜親鸞聖人御和讃〜〜

明日になったら頑張ろう、いや、来月になったら、いや、来年こそ…程度の差こそあれ、私たちは「今よりよくなるであろう」自分を思い描いて目標にし、努力しようとします。特に年末年始は顕著ですよね。

そもそも「目標」とは、現在自分がいる位置と、向かう方向がはっきりしてこそ成り立つものです。自分がどのあたりにいるのかわからなかったり、どっちに向かうのかわからないのにやみくもに頑張っても目標は成立しません。

人生全体を見渡してみるとどうでしょう。人間は、実は生まれた日も、名前も、家族もどれも自分で選んで生まれてきたわけではありません。すべて授かりものです。またこの先、死にゆく日も、場所も、その縁も、知りようもありません。最近では国や行政が、健康で元気で長生き、PPK(ピンピンコロリ)などと真顔で言っていますが、何をどれだけ気をつけて日々を過ごしていても「死の縁、無量なり(執持鈔)」と説かれるように、「わからないもの」なのです。つまり、私たちはどこからきて、どこにいくのか、人生全体では目標もなにも立てようがないわけです。

親鸞聖人が善導大師よりいただかれた「道光明朗」という言葉からは、道光、つまり「光り輝く人生の方向(道)」は「仏の教えに出遇うより明らかにする方法はない」といただくことができます。物理的・経済的にしか思考回路を持たない私たちの日常の延長線に人生とやらをのっけても迷いを深めるばかりです。そこを一歩超え(超絶)なければなりません。「人間は信心に立たなければ結局は金か権力に立つ以外ないのです」(訓覇信雄)と先達がおっしゃるように、本当の意味で人生に目覚めるということは、人生を少し離れたところから眺めることです。それを仏の眼差しといいます。人が仏の眼差しを直接持つことはできませんが、仏の言葉に出遇えば、仏の眼差しと同じ目線で、人生を少し離れてみることができます。仏さまは手を変え品を変えて、みなさんに仏の言葉に出遇ってほしい、と願っておられますよ。

今月も大和大谷別院の報恩講が勤まります。真宗門徒にとっての一年の計、人生の目標を見出すこのご法縁にぜひお参りください。

大和大谷別院寺報 2018年11月号掲載分