着飾った幽霊

住職法話>大和大谷別院寺報>第11回 着飾った幽霊

住職は2017年10月3日より2019年4月1日まで、奈良県大和高田市にある「大和大谷別院」の輪番事務取扱(代表役員代務)を仰せつかりました。短い期間でしたが、ご門徒さんと直接触れ合う幸せな時間をいただきました。当時発行の寺報1面に掲載した小話を掲載します。

他によって 自に立たねば 着飾った幽霊 〜平野 修〜

「他力本願」これほど世の中で誤って使われている言葉はありません。「他力こそ」浄土真宗の根幹を支える思想なので残念でなりません。

一般的に誤用される『他力本願』とやらは「他人の努力を頼みにし、甘えること」と解釈するようですね。つまり自らの努力(自力)こそが大切で、他人の力に甘えるべきではないと。一見判り易いようですが、決定的に欠けている視点があります。それは「ほんとうに、純粋に、あなた個人の努力だけで全ては動いてきたのですか」ということです。

人は決して自力だけでは生きられないと、親鸞聖人は気づかれました。努力はたしかに大切です。でもその努力を尽くさせてくれたものは何でしょう。

私につながる背景や関わった出来事、さらには私を支え、私の努力に道を譲ってくれたあらゆる全てではありませんか。どこまでも私という「個」に立ってしまう視点では、およそ感知できようのない広大な世界や出来事がつながりあい、めぐりめぐって私を根本から支えてくれていたのです。

そう気づいたとき、自力とはなんてうぬぼれた狭い視野なのだろうと報(しら)されるわけです。もちろん努力した本人にとってみれば、これまでどれほど必死で努力してきたことか、という思いは募りましょう。しかしその思いを成就させた因縁果、すなわち仏の広大な眼差しからすれば、私の努力なんて些細な果に過ぎません。

私にあって私を超えているからこそ「他」力と表現します。私を支え続けてくださった大地の智慧が感得される世界なのです。単純に「他人の力」などと字面だけ理解していてはこういう仏教哲学的な視野は開けません。

自ら力を尽くしても、それに固執もせず、主張せず、至ったその背景を感じとり、不可思議のご縁と頂戴する。それが他力本願です。南無阿弥陀仏の生活です。

かたや自力の世界しか知らない人は、テレビでよく見かけるように、主張ばかりで足元を見ません。まるで「着飾った幽霊」のようだと平野氏は押さえられています。

大和大谷別院寺報 2018年10月号掲載分