和讃にきく 第1回

第1回・和讃の基礎知識

 【はじめに】住職は2013年から4年間、大阪の推進員さんと一緒に過ごさせていただく「駐在教導」というお役目を拝命しておりました。そこでは「教導」とは名ばかりで、ご門徒さんに励まされ、なぐさめてもらい、教えてもらう毎日をいただきました。印象に残る言葉もたくさん教えてもらいました。
 大阪教区には「仏地の会」という推進員さんの学習会があります。そこでは駐在教導がゼミ発表のようにお話をし、座談を中心に「御和讃」を毎月1首ずついただいておられるのです。かな法語と呼ばれる和讃やご消息というものは実はとても奥深く読み解くのは大変難しいのですが、皆が座談で和讃を囲み、「私はこう思う」ということを言い合った経験は大変貴重で嬉しく、学び多い時間でした。その経験が忘れられず、自分なりの味わいを書いてみようと思い立ったのがきっかけです。毎月寺報に紙面の制約があるなか、自分なりの解釈を書き加えてきました。
 ここではいわゆる「解学」的な要素を持たず、住職がその時々に和讃から受け取った内容を書こうと思っています。解学に対して「行学」などとおこがましいことはもうしません。どこまでも私的な解釈にとどまるかもしれませんが、もしお付き合いいただけましたら幸いです。

「御和讃」は、お勤めの際に節をつけて読みます。だから「ゴワサン」は知らなくても、「弥陀成仏のこのかたは」は知ってるで!という方によくお会いします。これも親鸞聖人が「意味はわからなくても歌っているうちに覚えちゃうよ」と、仕掛けてくださってるんです。

 「和讃」とは何でしょう。和讃という言葉を知らなくても、法事や、お葬式、また子ども会などで、一度は耳にされたことがあるかもしれません。たとえば、

弥陀成仏のこのかたは

 今に十劫を経たまえり

 法身の光輪きわもなく

 世の盲冥を照らすなり

 これが「和讃(ご和讃)」です。

 さすがに750年前の言葉ですし、仏教用語ばかりで書かれていますから、なじみがなく、読み慣れないかもしれません。

 実は、親鸞聖人が仏教を学んでおられた時代、「僧侶」とは当時最先端の知識である仏教を学ぶ、一握りのエリートでありました(今は必ずしもそうとはいえません)。「漢文」は、そういう方々が使用する、今でいえば「英語」のような、国際語だったのです。だから、たとえば当時の僧侶は、「正信偈」などで「帰命無量寿如来」と書かれていれば、「無量寿如来に帰命し」と、すらすら読めたわけです(今は、残念ながらほとんどムリです・お恥ずかしいながら)。

 当然、多くの国民が読むことのできるものではなかったわけですから、当時の心ある僧侶は、「誰もがわかる言葉」で、「あらゆる人に、お念仏の教えのすばらしさ、ありがたさを伝えよう」と考えられました。こうして、「和語(日本語・やわらかい言葉)」で仏さまのお徳を「讃嘆する(たたえること)詩」、すなわち「和讃」が誕生したのです。だから和讃のことを「やわらげぼめ」ともいいます。親鸞聖人はそういう心ある僧侶の一人であったのです。

 節回しは7・5調(しちごちょうといい、1行が7文字と5文字からなります。これは当時、流行していた歌の節に合わせることで、より口ずさみやすく、親しみやすくされたのだろうといわれています。実際に後の時代、蓮如上人が和讃に今のような「メロディー」を付けられますが、そのもとになったのも、当時の流行歌であったといわれています。(怒られるかもしれませんが、どんぐりころころや水戸黄門の終わりの歌のメロディーで和讃を口ずさむことは可能ですよ・それだけ同じ韻を踏んでいる言葉は多いということです)

 和讃は「歌」ですから百人一首のように、「一首、二首」と数えます。親鸞聖人は当時の僧侶の中で、最も多くの和讃を残されました。全部で実に五百首以上存在しているといわれます。

 和讃は聖人が76歳の頃から製作をはじめられたといわれ、以後再晩年まで何度も何度も書き直しつつ作りつづけられたと言います。全ての漢字の右側にふりがなをつけられ、左側にはわかりにくそうな漢字の意味を書かれる(左訓といいます)など、普通の和讃を作る方では考えられないほど、細かい配慮がなされているのも特徴です。

 つまり親鸞聖人の和讃は、聖人が仏法に出遇われた喜びの詩であると同時に、現代の私たちに向けて、「どうか仏法に出遇ってください・本願に出遇ってください」と願い遺してくださったメッセージなのです。

翫湖堂・2014年6月号所収・一部web用に編集)