和讃にきく 第

回・弥陀成仏のこのかたは

阿弥陀仏が「成仏」するって何だかわかったようなわからないような…そこには「阿弥陀仏のその前」を考えるという手順・思想があるのです。それが法蔵菩薩の物語です。

いよいよ今月よりご和讃をいただいて参ります。今回は、浄土和讃の1です。

  弥陀成仏のこのかたは(みだじょうぶつの このかたは)

    今に十劫を経たまえり(いまにじっこうを へたまえり)

    法身の光輪きわもなく(ほっしんのこうりん きわもなく

    世の盲冥を照らすなり(せのもうみょうを てらすなり

 すべて日本語なんですけど、どうもわかりづらいですね。「弥陀成仏」とはどういうことでしょう。それは阿弥陀様が仏に成られたということです。では仏の前は誰だったのでしょう…それは菩薩です。菩薩とは世の人々を救うため、今は仏と成らずに私たちを待ち続けてくださっている方です。特に阿弥陀様は「法蔵菩薩」という名でいらっしゃいました。五劫という長い間、修行して(五劫思惟といいます)、人々を救う法にめざめ、仏と成られました。この和讃ではその後もさらに十劫の長きに亘って、私たちを待ち続けてくださるというのです。

 ではその「劫」とはどんな時間の単位でしょう。『大智度論』という書物には「1辺が40里(現代の距離で約20㎞)の大岩がすり減ってなくなるまでの時間だ」というたとえ話があります。そのすり減り方も「3年に1度、天女が舞い降り、薄い羽衣の裾でふわっとなぜる。この繰り返しで、その大岩がすり減って完全になくなるまで」というのです。まじめにこれを計算すると、一劫は43億年とも、またはそれ以上とも言われます。つまり、人間の思考では捉えきれないほどの長い時間ということなのです。

 「帰命無量寿如来、南無不可思議光」という正信偈の出だしがあります。無量寿とはとてつもなく長い時間をさします。そして不可思議光とはとてつもない広がりをさします。では、私たちはそう聞くと、何だかわかったような気がしますが、これこそ、とても短い時間感覚と、狭い考え方です。だから「世の盲冥」といわれます。世の盲冥とはなんでも自分の尺度(年齢・経験・知識)で軽々とわかったつもりになってしまう愚かな私たち、人間のことでした。

 阿弥陀様は仏となるまでに五劫、そして仏となってから十劫の間、誰を待っていたと思いますか。それはこの文章を読まれている方だけではなく、読まれていない方も「全て」ということです。そんな考え方、できますか?あの人はいいけど、この人はだめといった、私たちがよくやる思考法ではないのです。だから阿弥陀様の法身(仏法に生きられるお姿)から放たれる光の輪は分け隔てなく(きわもなく)、私たちの狭く暗い了見を照らしてくださっている、というのです。…実感できますか?

 さて今の世の中はどうでしょう。親鸞聖人の時代とさほど変わりません。自己中心的な狭く短い思考があふれています。そうして「昔はよかった」「明るい社会を」といいながら、今ある関係性を切り捨てて生きています。その自覚のない人もいます。

 やはり今の時代こそ、ご和讃を深くいただく必要があるようです。

翫湖堂・2014年7月号所収・一部web用に編集)