和讃にきく 第

回・智慧の光明はかりなし

ひとことで「ちえ」と言っても、中国から来た漢字には全く違う意味の言葉があります。それだけお経の翻訳は時代の哲学的知力・緻密な分析をフルに活かした国家的大事業だったのですね。

今回は、浄土和讃の2です。

  智慧の光明はかりなし(ちえの こうみょう はかりなし

    有量の諸相ことごとく(うりょうの しょそう  ことごとく

    光暁かぶらぬものはなし(こうきょうかぶらぬ ものはなし)

    真実明に帰命せよ(しんじつみょうに きみょうせよ

  冒頭に「智慧」とあります。

 仏教では「ちえ」に2種類あると大先輩から教えていただきました。ひとつは「人間の知恵(智恵)」そして、「仏さまの智慧」です。同じ「ちえ」のようですが…比べてみましょう。

 まず人間の知恵とは、たとえば機械の使い方を覚えようとしても、本を読まないと覚えられないように、「積み重ねること」を要求する知恵です。積み重ねて、自分のものにしないとその恩恵を受けることができません。いやでも、むしろ積み重ねても「覚えられない」…つまり自分のものになるかどうかわからなかったり、甲斐なく自分のものにならないこともあります。

 そうやって苦労しないと手に入らないから、知恵を積んだ人はその恩恵だけでは飽き足らず、知恵の上にあぐらをかきます。具体的には、自分より積み重ねが足りない人を見つけて「あいつより俺の方が優れている」と見下すのです。もっとひどくなると、これまで会ったことのないような人でも、憶測で「あいつはダメだ」と切り捨てようとします。心当たりはありませんか?…どうしてそんな悲しいことをしてしまうのでしょう。

 仏教ではその背景に「畏れ(おそれ)」を挙げます。五怖畏(ごふい)と言って、私たちは5つの畏れを持っているというのです。不活畏・堕悪道畏・悪名畏・死畏・大衆威徳畏…詳細な説明はここでは書ききれませんが、簡単に申せば「えらばれ、きらわれ、みすてられる」恐怖です。そして「えらばれたくない、きらわれたくない、みすてられたくない」という一心で、そうなる前に他者を切り捨てるのが人間の本性なのです。人間とは所詮そういう限界のある知恵しか持たないのです。

 一方、仏さまの智慧は、「えらばず、きらわず、みすてず(故 竹中智秀師の言葉より)」。いつでも、どこでも、まさに「今」、誰にでも等しく届く智慧なのです。だからそれは「光」に譬えられます。「智慧の光明」とは人間の浅はかな知恵では「はかれない」智慧なのです。それは「有量の諸相」、生きとし生けるものを活かす光です。

 ところで、「光暁かぶらぬものはなし」とは不思議な表現ですね。光があたる、照らされるというならわかりますが、「光をかぶる」とはどういうことでしょう。「かぶる」とは「この身にこうむる」、つまりはお湯をあびるようなものです。つまりおしりの隙間や脇のウラまで、私の恥ずかしいところ、隠しておきたいところまでを触れるように明らかにされるというのです。

 悲しいかな、人間は浅はかな知恵でもって自分の不都合を隠そうとし、あれこれ画策します。しかし、仏さまの智慧からはすでに「おみとおし」です。ゆえに真実の光、「真実明」なのです。そのような不可思議の(考えても無駄ですよという)はたらきに「帰命」、つまり素直に手を合わせましょう、と親鸞聖人は仰るのです。

翫湖堂・2014年8月号所収・一部web用に編集)