和讃にきく 第4回
第4回・平等覚
今の時代「私“が”行う」ということについて意識が集約され過ぎているように思います。全部コントロールしないと気が済まないのでしょうか。でも「私が」と思わなくても私の心臓は動いてくれていますし、身体も大きくなってきました。ごくごく自然にね。それってどうなんでしょう。
今回は、浄土和讃の3です。
解脱の光輪きわもなし(げだつのこうりん きわもなし)
光触かぶるものはみな(こうそくかぶる ものはみな)
有無をはなるとのべたまう(うむをはなると のべたまう)
平等覚に帰命せよ(びょうどうかくに きみょうせよ)
前回にひきつづき「光」という言葉が出てきますね。そろそろお気づきかと思いますが、ここしばらくの御和讃は、すべて「光」がテーマです。その光とは、前回で述べましたとおり「智慧光・真実明」、すなわち、ほとけさまの智慧の光でした。かたや、私たち人間の知恵とは「知識」、つまり光ではなく、積み重ねないと功を為さない知恵でありましたね。
この御和讃でも「人間の知恵」が形を変えて表現されています。それは「有無」です。有無とは「ある・ない」にこだわる姿勢です。私たちの日常は有無にまみれてはいませんか。あれがある、これはない…有る無しの意識だけを問うのではありません。役に立つ、立たない。使える、使えない。欲しい、要らない…きりがありません。
たとえば、お念仏ひとつをとってもそうです。南無阿弥陀仏とはどういう意味なのか、役に立つのか(有)、立たないのか(無)。こんなものを称えたところでどうなるのか…と。
何をするにも私たちは「頭」で物事を考え、理解しようとします。しかし、頭とは万能のように見えて、非常に騙されやすいものであることを最近の脳科学が証明しています。とすると、私たちはとても騙されやすいものを万能と思い込み、それを使って互いに交流しているわけです。そこで誤解し、争い、傷つけ合う…人間の知恵なんて、所詮はその程度なのです。
そこから解放(解脱)されるにはどうすればよいか。御和讃で親鸞聖人は私たちが仏の智慧の光をかぶることだと仰います。「そんな漠然としたことを言われても…」と思われるでしょうが、一つ簡単な実験をしてみましょう。場所は比較的お参りが多いお寺の本堂がいいでしょう。ガヤガヤしているぐらいがベストです。少し後ろの方に座って、手を合わせて「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称えてみてください。
…どうなりましたか?周囲のガヤガヤが静かになったり、もしかするとそれまでは平気であなたの前を横切っていた人が急に進路を変えたりしませんでしたか?
それこそが大乗菩薩行のお手伝いをされたことになるのです。
菩薩さまにもたくさんおられますが、特に浄土真宗で最も大切な法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)さまは「いつでも仏になれるのだけれども、念仏の功徳に出遇ってない方がある間は、自分をさしおいてでも仏にならず、待って下さっている存在」です。そのお手伝いをした瞬間を経験されたわけです。
今の実験では、称える人の頭の中に雑念が浮かんでいようと、念仏を称えることで、称える人の身には何も起きていないようでも、周囲に念仏の功徳を伝えていることになります。人の掌を合わせるとは2つの山を合わせることよりも難しいといいますが、ガヤガヤの幾人かは、いつか念仏されるようになるかもしれませんね。こればっかりは人間の賢そうな「頭」で考えてもできませんよ。
つまり念仏こそが、誰にでも実践可能な、「平等覚」の菩薩道をともに歩む道であり、仏の智慧に触れたあかし、有無を見据えた生活の第一歩を指すのです。
(翫湖堂・2014年9月号所収・一部web用に編集)