和讃にきく 第

回・光雲無碍如虚空

雲から見れば、地上にへばりついて、お互い隣同士、くっついただの、ぶつかっただの、しているのが人間です。

今回は、浄土和讃のです。

  光雲無碍如虚空(こううんむげ にょこくう)

   一切の有碍にさわりなし(いっさいのうげに さわりなし

   光沢かぶらぬものぞなき(こうたくかぶらぬ ものぞなき)

   難思議を帰命せよ(なんしぎを きみょうせよ

 今回も光がテーマです。

 光の雲とはどういうことでしょう。

 雲は空中に浮かび、季節や天候、時間によって自在に姿を変えます。つまり自由(無碍)であるということです。最近、新聞記事でもクラウド(雲)という言葉が紹介されていますが、この場合、コンピューターなどでいつでもどこでもデータが引き出せるので「あたかも雲のような」サービスのことです。

 つまり、雲とは「いつでもどこでも」という万国共通の時代を超えた表現とも言えます。この自由な姿も、ここしばらくの和讃を貫くテーマ、「光」のはたらきをあらわしているのです。光は瞬時にという姿も持ちます。まさに自由自在・瞬時に阿弥陀如来のはたらきは私たちの所に届いているのだ、というのです。

 さて、阿弥陀如来のお姿は、普段、私たちが拝している像では表現しきれていません。どんなお姿かは経典の中で「三十二相八十種好(如来様がお持ちになると言われる32の相とさらに細かく、80ほどあるが私たちではわからないほどの特徴)」という数で示されますが、要するにどれほど人間の想像力をもってしても表現し尽くせないのです。だから親鸞聖人は「色もなくかたちもましまさず、ことばもたえたり(色もないし、形も持たれない、言葉では表現できない)」と仰いました。

 形を持たないということは、形にしばられません。それだけでもまた「自由」(さわりなし)ということです。「光沢かぶらぬものぞなき」とあるように、本願の光のはたらきが届かない人はいません。仏さまの光は、あらゆる方の人生の場面を、常に照らしてくださっているのでした。

 また、そのはたらきは「虚空の如し」といわれます。これはどういうことでしょう。虚空とは、むなしいという意味ではありません。たとえば私たちは量をもって生きています。すなわち私が座っている場所に同時に別人が座ることは出来ません。席を譲る必要があります。そのようにお互いにひしめきあって生きているのが私たちの実相です。押し合いへしあい、苦しんだり憎しみあう必要のない処が浄土です。浄土には定員がなく、念仏すれば誰でも来れます。そういう限りない広さが、ここでは「虚空」と表現されているのです。

 さて、その光に気づかない・気づけないのは誰でしょう…こちら側に問題があるとは思いませんか。いかがでしょう。言葉で表現を聞くと、つい具体的に想像したくなるのが人間です。しかしその想像こそが、自由(無碍)を妨げ、日常を縛り付けているのです(有碍)。だから前回から申しておりますように、考えても無駄なのです。よって「難思議」といい、その難思議に帰命せよ…その不思議に素直に手が合わさるかどうかを問うてくださっているのです。

 見方を変えれば、すべて理詰めで考えたがり・理解できないものを信じない(信じたくない)という、現代の闇を見通しているようですね。本願は時代を超え、今まさに、私たちを足元から照らしてくださるのです。

翫湖堂・2014年10月号所収・一部web用に編集)