精神の解放ってあるんですよ。それは瞑想とかマインドフルネスとか神秘的な解放ではなく、「ああ、そうであったのか」というお粗末な自分に気づく、という意味での解放です。
今回は、浄土和讃の5です。
「光」のご和讃が今回も続きます。仏智の光のはたらきは12種類に表されます。
1 無量光 量ることのできない光。
2 無辺光 際限のない光。
3 無碍光 何者にも遮られることのない光。
4 無対光 くらべるもののない光。
5 炎王光 最高の輝きをもつ光。
6 清浄光 衆生の貪りを除く清らかな光。
7 歓喜光 衆生のいかりを除きよろこびを与える光。
8 智慧光 衆生のまどいを除き智慧(ひらめきを与えさかしさを除く)を与える光。
9 不断光 常に照らす光。
10 難思光 思いはからうことができない光。
11 無称光 説きつくすことができず、言葉もおよばない光。
12 超日月光 日と月の光を合わせてもかなわないほど超越したすぐれた光。
…聞いたことがありませんか。普放無量無辺光・無碍無対光炎王・清浄歓喜智慧光・不断難思無称光・超日月光照塵刹〜…そうです。「正信偈」にはこの光が全てうたわれてあります。
今回は6番目の清浄光をご和讃の頭に示しておられますが、それは同時にこの12の光全てを讃えておられることに等しいのです。これら全てのはたらきを備えた仏の智慧とは、他にならべて比べることができません。そしてこの光に遇うことで、一切の業繫…すなわち業と繫縛(けばく・とらわれの思い)から解き放たれるのです。
そんな光、知らんわ…じつは常日頃より私たちに届いているのです。気づかない・気付けない・見えない・感じられないのは私たちが他のことに目移りするような毎日を送っているからに他なりません。それでもふとした拍子にこの光に遇うことがあります。そもそもすでに届いているのならば、何もしなくても遇えそうなものですが…それだけ私たちの日常は目移りだらけ。それが私たちの持つ業であり、繫縛なのです。
親鸞聖人は御和讃で「斯の光(このひかり)にぜひとも遇(あ)いましょう」と勧められておられます。多くの人々が忘れているかもしれませんが、そもそも私たちは仏のこの光に遇うために、人間としてこの世に生まれてきたのです。次に生まれ変わって人間となる保証はどこにもありません。なぜなら私たちは人間として生まれてくる方法を知らないからです。知らないでしょ?
多くの仏教では、仏の光に遇うため、私たちが一心不乱に我が身を見つめ、目移りや心変わりを一切廃する努力を不断に積み重ねてゆかねばなりません、と説かれます。でもそのような修行が徹底できればよいのですが、悲しいことに、何事も末通らない私たちにはできそうにもありません。
そこで残されただ一つの方法が「念仏」なのです。念仏の行はすでに阿弥陀様が完成してくださっておられます。こちらから橋をかけるのではなく、向こうからかけてくださっている橋に正しく向き合うのです。それが念仏です。この五濁悪世の世に生きる私たちができることはただ一つ。それを「我が名(阿弥陀仏の名)を呼んでください」と、阿弥陀仏の方から願ってくださっておられるのです。その阿弥陀仏の御心に沿い、ひと言、念仏を申すことで仏の光に遇うことができるのです。
畢竟するところ、乱れ切った現世を生きる私たちにはこの方法しかありません、だから斯の光に一緒にあいましょう、と親鸞聖人が感得された喜びを顕されたのがこのご和讃なのです。
(翫湖堂・2014年11月号所収・一部web用に編集)