和讃にきく 第

回・おはずかしい我が身

おはずかしいって感じたこと、あります?むしろ「いや、これには訳があってだな」とか「そんなことはない、私は正しい」と虚勢を張ってはいませんか?

今回は、浄土和讃のです。

  仏光照曜最第一(ぶっこうしょうよう さいだいいち

   光炎王仏となづけたり(こうえんのうぶつと なづけたり)

   三塗の黒闇ひらくなり(さんずのこくあん ひらくなり)

   大応供を帰命せよ(だいおうぐを きみょうせよ)

 今回の和讃は、平素のおつとめで一区切りとなる箇所ですね。

 これまで仏様の智慧の光は、人間の知恵(知識)を超えすぐれ、十二の光として表現されると紹介してまいりました(第6回詳細)。今回はその五番目の名前、炎王光が読み込まれています。

 仏の光は光の中の光、太陽もおよばぬ「最第一」の輝きであるといいます。それは私たちの想像(思議)の範囲をはるかに超え、(不思議)何ものにもさえぎられることなく、私たちの心の闇をも明るく照らす光なのです。

 ところで、「私の心に闇などない、これまで堂々と生きてきた」と胸を張る方、時々おられますね。よほどご自身の人生に責任と自覚を持って生きて来られたのでしょう。私の様な怠け者は感服するしかないのですが、ここで一つの質問をしたいと思います。

 「あなたは人を殺したことがありますか?」と。

 大抵の人は「殺したことがない」と答えるでしょう。人を殺せば犯罪です。そんな大それた罪を犯すはずがない。まして前述のような心に闇がないと仰る方は「とんでもない」という顔をされます。

 しかし、仏法には「身口意の三業(しんくいのさんごう)」という言葉があります。たとえ自ら手を下して人を殺したことはないとしても、口で死んでしまえと罵ったことはありませんか?または意識の底で死んでしまえばいいのにと思ったことはありませんか?…おそらく誰もが胸に手を当てて考えれば思いあたることが一つや二つはあるのではないでしょうか。

 「身口意の三業」は私たちの日頃の有様を表すものです。私たちは身だけで生きてはおらず、口や意識でそれぞれに「業」を積み重ねています。たとえ身では人を殺していなくとも、口や意識で殺してしまっているということをないとは言えません。意識の底にのぼる微かな殺意とは、誰しもが人生を真面目に生きれば生きるほど、一度ならず経験があるはずだからです。

 それでも「人を殺したことなどない」と言い切れる方を「最も闇の深い方」と言わざるをえません。仏法は、直接人を殺すこと(身)だけを罪としていません。口に出し、思う(意)だけでも「同罪」なのです。私たちはそういった三悪道、すなわち地獄(孤独)・餓鬼(むさぼり)・畜生(隷属)という三塗の黒闇を生きておりますが、多くはその自覚すらありません・むしろ胸をはり「私は一度も間違ったことをしていない」と思い込むお恥ずかしい存在です。その「お恥ずかしい」をひらいて下さるのが仏法の智慧の光なのです。私は間違っていないと言い切れる「正義という闇」。この闇ほど深い闇はなく、この闇を破る光はこの世の光では破れません。ゆえに仏の智慧を「光」と表現されるのです。

 いっぽうで身口意の業は見方を変えることもできます。たとえ身はどれほど病んだり不自由であったとしても、美しい言葉や麗しい意識・精神で人生を美しく荘厳(しょうごん)することできる、ということです。これはお釈迦様の言葉にもありますね。「生れによって賤しい人となるのではない。生れによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる」と。

 仏の智慧は言葉に乗って、時代と空間を超え、現代の私たちに届いています。浄土真宗は「光に遇って闇を知る宗教だ」と教えて頂いたことがあります。そして、「言葉は光だ」とも。

 人類で最初に本願に遇われ、本願を示してくだされたお釈迦様。そのお釈迦様が究極的に示して下さったのが、「ひと声でも念仏申せば、救いとらずにおかぬ」と誓われた阿弥陀如来の智慧の世界です。その智慧に出遇うには、仏法の言葉に出遇い、言葉に照らされて、我が身の闇に気付き、まことの人、「真人(応供)」に目覚めねばなりません。阿弥陀様はそれを私たちに願っておられるのです。

翫湖堂・2014年12月号所収・一部web用に編集)