和讃にきく 第8回
第8回・念仏の第一歩
仏の心光はひだまりのようにあたたかく、常に私を照らしてくださっているのです。ただ、それに気づけないのです。問題は、こちらにあるのです。
今回は、浄土和讃の7です。
道光明朗超絶せり(どうこうみょうろう ちょうぜつせり)
清浄光仏ともうすなり(しょうじょうこうぶつと もうすなり)
ひとたび光照かぶるもの(ひとたびこうしょう かぶるもの)
業苦をのぞき解脱をう(ごうくをのぞき げだつをう)
清浄光という仏のはたらきがここで謳われています。このご和讃のことを、かつて曽我量深師は「信心の行者の内面生活」と仰いました。念仏の行者は、人間の感情や勘定という世間を作り上げているものを超越し、清浄光仏が我が身に寄り添って下さることを内に実感するのだというのです。
平素、思い描く自分自身とは、他人が見るよりも自分に都合良く思いえがきがちです。逆に自分以外の他者は、自分より下に見たくなりがちです。だから意に反して辛い思いをすると「ちょっとまて、わたしはこんなもんじゃないぞ」と被害者ヅラしてみたり、あるいは「あいつが悪い、あいつはこんなもんや」と他を見下し、加害者として生きています。つまり結局は、自分を中心にしてあれやこれやと言い訳ばかり。都合の良い色眼鏡をかけているようなものです。
このご都合主義がどこまでも抜けないのが人間存在です。その生き方を業苦といいます。苦しみなんですね。でも単なる苦しみではありません。私の根性の奥底に染みついた業から生みだした根源的な苦しみです。それは他人から貰うものでなく、まるで垢のように毎日我が身から生まれてきます。罪垢(ざいく…罪のあか)とも言い、ちょっとやそっとでは消えてくれません。誰が悪いのでしょうね…ほかならぬ私なのですが。
仏の光とは、目には見えない光でありながら、常に「かぶっている」と以前申し上げました。かぶるとはお湯のようなものです。都合よく覆い隠していても、頭からお湯をかぶれば、すべてがびしょ濡れになるように、私のお恥ずかしいところ、隠しておきたいところをも照らしだして下さいます。いかに自分を飾っても、仏の眼からすればすべてがお見通しということですが、それにふと気づけたとき、私たちは、ほんとうの意味での自分の姿を知ることになります。
いや、ちょっと待て。仮にそんなお粗末な私だとして、ひょっとすると明るみに照らされた途端、恥ずかしさのあまり絶望してしまうのではないか、または仏罰が当たるのではないかと心配になりませんか。
ところが念仏の道はそうはならないのです。なぜなら、本当の人間のありさまに内面から気づくことこそ、弥陀の本願が願うところであり、自分では外せない色眼鏡から解き放たれる瞬間だからです。被害者や加害者という選り分ける意識を超え、「何ものにもさえぎられない、明朗に光輝く道(道光明朗超絶せり)」を歩む第一歩が踏み出されるのです。
そもそも「道」とは一本です。かたや私たちは「路」なのです。色々あって、迷うのです。だから迷路と言うでしょう。こちらからああでもないこうでもないと迷う路は何本でもあります。自分の力で自分を救おうとする路は迷いの路なのです。これを“自性唯心に沈む”と言います。阿弥陀様の道は念仏の道、一本なのです。
世間的には業を知らされたりすると苦しむでしょう。仏教的な意味では業が照らされると人生の底から明らか・朗らかになるのです。お粗末な私をそのままに知ること、それはあまりにも自力では難しく、また、弥陀の他力によってサラリと知らされたその明るさは体験してみないとわかりません。
こうして念仏の第一歩を踏み出すことができれば、あとはどんな根性であったとしても、その存在のままに清浄と為してくださる清浄光仏のはたらきが、人生のできごと全てを大切な出来事として、寄り添ってくださるのです。
(翫湖堂・2015年1月号所収・一部web用に編集)