和讃にきく 第9回
第9回・帰命せよ
昼寝をしていて、あったかいなぁと思ったらふと日が射してくれていた経験、ありませんか?あれって何とも言えない幸せな気分ですよね。
今回は、浄土和讃の8です。
慈光はるかにかぶらしめ(じこうはるかに かぶらしめ)
ひかりのいたるところには(ひかりのいたるところには)
法喜をうとぞのべたまう(ほうきをうとぞ のべたまう)
大安慰を帰命せよ(だいあんにを きみょうせよ)
慈光とは、いつくしみ、はぐくむ光ということです。
これまでのご和讃でみてきた仏さまの「十二光」は、どの光もすべて私たちを慈しみ、育む光です。決して私たちを傷つける刺すような光ではありません。その名が表すとおり、際限がなく、やわらかな慈愛にあふれた、どこまでも届く不思議な人智の及ばない光(=慈光)です。
それこそ、その光はどこまでも届きます。だから何も包み隠すことを許さず、全てを明らかにしてゆくので「かぶる(蒙る)」のだと以前に申し上げました。私たちがすすんで、選びとって、自らかぶるわけではなく、阿弥陀さまから常にいただいているのです。言ってみれば不可抗力であり、どこまでも受け身です。だから親鸞聖人は「かぶらしめ(る)」と表現されたのです。
さて、和讃のお言葉には、その慈しみの光が届くところ(いたるところ)には、必ず喜びがある、とお書きになっておられます(法喜をうとぞのべたまう)。
何を喜ぶのでしょう。
それは、ただ何かをもらって嬉しいとか、誰かと比較して喜ばしいというものではありません。和讃には「おおきなやすらぎ(大安慰)」といわれます。
昨今、またもや世界各地で宗教戦争がクローズアップされています。宗教の名を利用して人を鼓舞し、戦わせることは、かつてこの日本でも行われてきました。本来安らぎを与えるはずの教えが、人間の思いや手に染まると、反対に人を傷つけるものとなります。つまり、安らぎから遠く離れてしまうのです。
決して間違ってはいけないことは、世界宗教はどれも「他者を傷つけること」を厳しく誡めています。傷つければそれは既に宗教ではなく政治あるいは暴力です。どれほど自分のほうが正しいと主張しても、ひとたび他人を傷つければ、いかなる理由があろうと、正義は霧散します。全てひっくり返ってしまうのです。よって世界の宗教戦争は宗教に名を借りたただの人間のエゴのぶつかり合いです。
本当の安らぎは、他を傷つけないよう気をつけること、さらには、どれほど傷つけまいとしても、どこかでどうしても傷つけ続けてしまっている苦しみの連鎖に気づくことに始まります。なかなか気付けないこの連鎖に気づくこと、それが教えの光であり、その光を受けた喜びを「法喜」といいます。単なる世俗的な喜びではなく、それを超えて、仏教の教えが私の哀しい心に届いたときに気づかされるという、まことの深い喜びです。そこには恐怖や怒り、悲しみが微塵も入り込む余地がありません。だから安らぎのなかの安らぎ、「大安慰」というのです。
さて、この喜びを伝える仏教の教えは、聞かなければ届きません。届かなければ気づきません。気づけないことは存在しないことではなく、その人にとってそのように感じるだけのことです。仏さまの十二光は誰にでも届いています。しかし仏法を聞き、それに目覚めたものしか、その事実に気づくことができないのです。
つまり仏法がわからない・仏法が聞こえないことについての非は「受け取る側にある」と言えます。
これまでくり返されてきた、和讃の終わりにある「帰命せよ」とは、そのことに気づいてほしいという、親鸞聖人の心からの願いであります(むろん、七・五調にまとめないといけない制約の中で宗祖が選ばれた言葉でありますが)。
同時に「帰命」=「南無」ともいい、すなわち手を合わせ、口に「南無阿弥陀仏」と申してほしいという、仏さまの願いでもあるのです。
(翫湖堂・2015年2月号所収・一部web用に編集)