和讃にきく 第10回

第10回・無明とは確信の感覚

これでいい、これで大丈夫と自分を「枠」にはめて、安心しながら迷いの道をまっしぐら。これが私たちの「無明性」です。

今回は、浄土和讃の9です。

  無明の闇を破するゆへ(むみょうのあんを はするゆえ)

   智慧光佛となづけたり(ちえこうぶつと なづけたり)

   一切諸仏三乗衆(いっさいしょぶつ さんじょうしゅ)

   ともに嘆譽したまへり(ともにたんよ したまえり)

 「無明の闇」と冒頭にありますね。

 無明というと、人間が迷っているたとえのようにに思われるでしょう。語感からしてそうですね。「明るさが無い」と書くのですから。しかし藤場俊基師(金沢・常讃寺)は「無明とは迷いの感覚ではなく、確信の感覚」と説かれました。

 無明とは、たしかに仏教が説くところでは「迷える衆生」をさします。ではその無明がどんな現れ方をするのかといえば、私たちが日頃、「これで間違いない、大丈夫だ」と確信・断定しているとという現れ方をします。確信していること、それがすなわち迷いだと言うのです

 私事ですが、以前こんなことがありました。京都から急ぎ帰らねばならない用があり、米原まで新幹線に乗ったのです。ところが、米原を過ぎても新幹線が止まりません。何のことはありません、京都駅のホームで1本乗り間違えてしまったのです。結局、名古屋まで行って事情を話し、帰ってくることができましたが、なんとも情けない気持ちでいっぱいでした。さて、私が望む米原で降りられなかったのは、どこで問題が発生していたのでしょう。名古屋に着いたときですか?米原で降りられなかった時ですか?そもそも京都に行ったのが間違いですか?…どれも違いますね。

 「京都駅で自信満々に一本違う列車に乗り込んだ」時、あやまちは始まっていたのです。まさにそのときの心境は「これで大丈夫」と「確信」していました。慎重さのかけらもありません。これこそ「無明が確信の感覚」である証です。

 無明はわたしたちが「それと気づけない」ところから問題が始まっています。

 親鸞聖人はそういった私たちの無明の生きざまを「行に迷(まど)い、信に惑(まど)い」(教行信証総序)と仰いました。「まよい」にも2つあるんですね。迷信のように「まあな、まさかとは思うんだけれど、万が一…」と、わかっていながらもやめることのできない「迷」と、自分は大丈夫、これで間違いないと、自信満々に足を踏み外す「惑」という姿です。いかがでしょう。人間は自信がないときも自信があるときも、いずれにしても、どうあがいても無明の闇の中なのです。冗談ぬきに「迷惑」な生き物ですね。

 こうした人の知性の闇は、仏の智慧光でしか破られることはありません。まして現代人のように「自分こそが正しい」と自分を正当化して生きるスタイルは、知性の闇の中にはまりこんでいると言えましょう。和讃では、すでに仏法をいただかれたと言われる「三乗衆(声聞・縁覚・菩薩)」の方々も、ああ本当だね、まさにそのとおりだと、仏の智慧を讃えて(嘆譽)おられます。いっぽう、現代の私たちはどうでしょう。指摘されてもうるさいと思うのではないでしょうか。ああまさに、そのとおりと素直に頷けるでしょうか?なかなか難しそうですね。

 無明という迷いは、確かに我々人間に属するものですが、ああそうか、なるほどそうであったと気づいた瞬間は、すでに無明ではなく、「闇」は晴れています。実は闇が晴れるのは一瞬なのです。これを曇鸞大師は「千歳の闇室に光若し蹔く至ば、即便明朗なるが如し【1000年暗闇に閉ざされた部屋でも(明るくなるのに1000年かかるわけではなく)光が届けば一瞬で明るくなる】」と教えてくださいます。

 無明は生きざまです。だから人間である以上、やめることもできません。しかし「私は無明の闇に生きている」と心底からうなずけたとき、仮に間違いを犯したとしても素直に認め、改めることができます。また、間違えても、そこで絶望してしまうこともありません。そうして私たちは自分の生きざまを少しだけ横に置いて確かめる必要があります。それが浄土の世界であり、そこに導いてくださるのが「お念仏の教え」なのです。

翫湖堂・2015年3月号所収・一部web用に編集)