和讃にきく 第11

11回・「聴く」と「聞く」

努力して「聴く」のと、ぼんやり「聞く」。圧倒的に努力して聴くことばかりがもてはやされますが、本心で求めているのはそっちじゃないでしょう?ぼんやり「聞く」のも大切なのです。

今回は、浄土和讃の10です。

 光明てらしてたえざれば(こうみょうてらして たえざれば

  不断光仏となづけたり(ふだんこうぶつと なづけたり

  聞光力のゆえなれば(もんこうりきの ゆえなれば)

  心不断にて往生すしんふだんにて おうじょうす)

 今回は阿弥陀様の「十二光」のうち、不断光のおはなしです。不断光とは十二光の中でも「常に絶え間なく届く」というはたらきを指します。「光明てらしてたえざれば」とはまさにそのことですね。

 次に「聞光力」とは「仏法を聞きひらくはたらき」のことですね。「聴く」と「聞く」は、日本語としては同じ「きく」ですが、意味合いが大きく異なります。聴くはいわば自発的に意識して忘れないように大切に聴く。対して聞くは聞こえるままに聞くと言います(耳受聲也)。簡単に言えば、いっしょうけんめいきくのが「聴く」で、ぼんやり(笑)、忘れるレベルできくのが「聞く」です。

 「聴く」という言葉が表すように、努力すれば、仏法は論理的に理解できるかといえば、答えはノーです。なぜなら仏法は私たちの感覚そのものにはたらきかけているからです。残念ながら人間とは言葉(=理屈)でしか物事を伝えられませんから、仏法の乗り物も自然と言葉が中心で伝えられてきました。言葉で示されれば、なんとかして具体的にイメージし、理解しようとするのが人間ですが、それが逆に混乱と闇を生み出しているのです。

 数学者の岡 潔氏は小林秀雄氏との対談で「数学は知性の世界だけに存在しうるものではない、何を入れなければ成り立たぬかというと、感情を入れなければ成り立たぬ。(中略)心が納得するためには、情が承知しなければなりませんね。だからその意味で知とか意とかがどう主張したって、その主張に折れたって、情が同調しなかったら、人はほんとうにそうだとは思えません(中略)人間というものは感情が納得しなければ、ほんとうには納得しないという存在らしいのです。(新潮文庫・「人間の建設」より)」とおっしゃました。

 私たちは、どれほど正しい理屈で説得されても、説き伏せられても、どこか心の底で納得できないという一面を持っています。よく裁判の結果に納得がいかず、とことん争う姿を見ますね。あれはいかにも知性が戦っているように見えて、つまるところ感情のせめぎ合いに過ぎないのです。なぜならその根拠が「人間が作った法」に依っているからです。

 知識や理屈だけでは人間は生きてゆくことができません。だから禅宗では「不立文字」といって、言葉や理屈の説明を極力廃しました。言葉を超えると言う点において、念仏にも共通するところがあります。

 「聞光力」とは聞こえるままに聞き、ときに忘れてしまう。ただしかし、それを幾度もくり返すうちに、仏法が私たちの感情に直接光り届き、そして開かれてゆくというのです。私が開く「ちから」ではなく、光に導かれて開かされる「ちから」です。なので、私の頭でわかるから聴こうとか、わかるまで聴くのだ、のではなく「わからなくても繰り返し聞く」のです。「理解しよう」という努力や意識操作が入り込めば、結局そのことにとらわれ、誤ったイメージを構築してしまいます。そうなれば仏教は永遠にわからないこととなるでしょう。

 「心不断にて往生す」とは、仏法の心髄が「わからないその先にある」ということです。不断に聞き続けることが、わたしたちの心の向きを変えてくれるのです。これを回向と申します。さてさて、こうやって言葉を尽くして書いていること自体が、仏法に背いているのかも知れませんね。

 南無阿弥陀仏。

翫湖堂・2015年4月号所収・一部web用に編集)